やっぱ、真央ちゃんはすごい!

 

演技を見終わった時、自然に涙が溢れていました。

 

ソチオリンピック、女子フィギュアスケートフリー。

真央ちゃんの演技は完璧でした。

あの全てのジャンプを失敗した前日のショートプログラムが嘘のよう。フリーでは全てのジャンプを決め、自己ベストを更新する完璧な演技。

 

 彼女は天をあおいで泣いていました。観客のスタンディングオベーションの中、天国のお母さんに語りかけるように。

 

 

 

 前日の演技が終わった後の彼女は放心状態でした。明らかに頭が真っ白という様子で、見ていても痛々しいくらいでした。世界中から『Fight  Mao!』の応援が寄せられたそうです。

 

 報道によると、2日目のフリー当日の朝の練習でもどこか上の空。なかなか本来のスケートができません。前日のショックが相当大きかったのでしょう。

 それを見かねて、姉の舞さんが電話で叱ったそうです。コーチも喝を入れた。舞さんは妹の真央ちゃんにどう声をかけようか悩んだのですが、「皆は優しく励ますだろうから、家族くらいは叱らなきゃ」と考えたそうです。

 

          それで真央ちゃんは目覚めた

 

 赤飯を食べ、昼寝を充分にとり、フリー本番に臨んだ。その間、10時間。

 

 たった10時間で真央ちゃんは気持ちを切り替え、あの完璧な演技をやり遂げました。

 

 すごい精神力。

 

 

 

 今回の真央ちゃんを見ていて、改めて、人間の弱さと強さの両方を見せつけられたような感じがします。

 

 世界でトップレベルの実力を持っていても、プレッシャーという魔物に飲まれてしまう弱さ・・・そして・・・たった10時間でその魔物を飲み込んでしまう強さ・・・。

 

       人間は、何て素敵なんだろう!

 

 苦しみ抜いて逆境を乗り越えてゆく心の強さ、ひたむきさ・・・それは、人間の素晴らしさの一つではないでしょうか?

 

 そして、それは見る者を感動させます。

 

 

 

 今回の成績は6位に終わりましたが、見ていた人は誰もがNo.1だと感じたでしょう。

 

 真央ちゃんは、世界でNo.1です。

 

 

 そして、本当の優しさとは・・・?それは、ただ暖かく慰めたり励ましたりすることだけではありません。時には、心を鬼にして叱らなければならない。それも本当の優しさです。それは、心から相手を想うがゆえ。

 

 だから、お姉さんの愛情もNo.1!

 

 

 本当に素晴らしい姉妹です。

 

 

 

(p.s) またまた、アインシュタインの言葉...

 

 『人の価値とは、その人が得たものではなく、その人が与えたもので測られる』

          

 

  (真央ちゃんは、私たちにたくさんの感動を与えてくれました)

 

 

 

 

 

 

本物の優しさは厳しさを宿す             2014/2/22

 

 

 

  

かわいい子には旅をさせない!?

 

 先日25日は国公立大学の前期試験でした。

 そこでビックリするニュースを耳にしました。東北大学で、ある理由から試験開始時間を遅らさざるを得なかったというニュースです。その理由は、受験生が試験会場までの臨時バスに乗れなくて試験開始時間に間に合わなかったからです。

 どうして、受験生がバスに乗れなかったのでしょうか?それは、同伴した父兄が予想以上に多くて、肝心の受験生が乗れなかったからだそうです。

 報道によると同大学生協は試験当日に父兄向けの説明会を開いた(その大学側の計画もどうかと思いますが)そうで、そちらに参加する父兄もいたようですが、実際は参加しない父兄の方が多かったそうです。つまり、純粋に受験生に付き添っただけの父兄が大半だったわけで、そのためにバスが足りなくなってしまったのです。

 

 父兄が受験会場まで一緒に行く・・・。僕の感覚ではちょっと信じられません。僕が受験生の頃は、もし親が一緒に付いて行くなんて言おうものなら恥ずかしくて断ったでしょう。小学生じゃあるまいし!って。

 今の子達は、そういうのを何とも思わないのでしょうか?自分の受験なんだから一人で行くのが当たり前と考えるのは古いのでしょうか?まあ、女の子の場合で、遠い場所に一人で行くのは心配だから宿泊先まで親が付いて行くくらいははわかりますが。

 

 今の世の中は、少し過保護すぎない?

 

 今回の件だけでなく、就活にも親が付いて行くとか、仕事でトラブルがあると親が会社にクレームを付ける等の信じられない話も聞きます。

 

 少子化で子供が少なくなったことで、親の子供にかける期待は過剰になっているのでしょうか?子供は子供で、小さい頃から様々な自律体験が乏しいために、ストレスに対する抵抗力が弱くなっているのでしょうか?

 だから、いつまでたっても、子離れできない親、親離れできない子が増えているのではないか?

 

 最近、「新型うつ病」なるものが増えています。自己主張は人一倍するけど、ストレスに弱く、自己中心的で被害者意識が強く他人のせいにする。そういう若者達が組織の中で適応不全を起こし、「自分はうつだ」と訴え仕事に支障が出るケースが増えています。 

 ある会社では、突然連絡もなく出社しなくなった新入社員に上司が電話したら、「お前が叱ったせいで出勤できない」と平然と述べたとか。でもこの人、休日はガールフレンドとデートしてるんですよ。

 これじゃあ、上司の方が本当のうつ病になってしまいますよね(笑)。

 大人になりきれていない未熟な大人が増えている一例です。各企業では、このような新種の世代!?の対応に手を焼いているという記事が朝日新聞に載っていました。

 

 

 

 昔から、「かわいい子には旅をさせろ」ということわざがあります。若い頃から一人で様々な体験をさせること、つらい経験も積ませること、そういうことが人間形成に大事だということです。

 

 でも、今の社会は、子供が困らないように親が先回りして線路を敷いてしまうケースが多くないでしょうか?親は、それが子供への愛情だと思ってる。でも、それは本当の愛情でしょうか?それは、子供の自律性や困難を乗り越えて行こうとするチャレンジ精神を奪っているだけではないでしょうか?

 

 愛情は、時には厳しさを伴います。「母親の獅子が子獅子を崖から突き落とす」ということわざもあります。その子に自律してほしいからこそ、あえて子供がつらい思いをするのを承知でやらせる。答えを教えるのではなく、突き放して自分で考えさせる。

 

 留学事情でも、最近は日本からの留学生が顕著に減ったそうです。ハーバード大学でも、日本人留学生の比率は中国や韓国の留学生の比率に遠く及ばないそうです。

 

 このような親離れできない大人が社会に溢れている状況で、これからの日本は大丈夫なのでしょうか?

 

 

 

 

一人旅はいいものですよ                2014/3/1

 

 

 

 

 

満5歳になりました

 

4月13日で、クリニックが満5歳になりました。

 

 早いものです。5年前の開院日は茅野駅前のソメイヨシノが満開だったですが、今年はまだ蕾です。今年の冬は大雪で寒かったから、桜も開いて良いか迷っているのでしょう。僕たちも、ノーマルタイヤに履き替えて良いか迷ってますから(笑)。

 

 この5年間、いろいろなことがありましたが、患者様や関係者の応援や御協力のおかげでなんとか無事やってこれました。

 

本当に、感謝、感謝です。ありがとうございます。

 

 このクリニックは、患者さんやスタッフ、その他の関係者の方々の様々な力と応援で成り立っているんだなあと、毎日感じています。

 

 さて、そんな記念日の今日、僕は朝から熱を出して寝込んでます(涙)。

 毎年、冬になると恒例行事のように風邪を引くのですが、今年はあんなに厳しい寒さだったのにも関わらず一度も引きませんでした。このままいけるか!と思った矢先に引いてしまいました。暖かくなって来て気が抜けたせいでしょうか。患者さんの診療に差し支えてはいけないので、今日は素直に寝ていようと思います。

 

 4月から新しいナースが来てくれました。

 

 患者さんに身近なクリニックでいられるよう、スタッフ一同精進していきたいと思います。

 

 これからも、よろしくお願い致します。

 

 

 

三寒四温と発熱                   2014/4/13

 

 

 

 

 

モナ・リザ

 

 雑誌をパラパラとめくっていたら、たまたま一枚の絵が目に留りました。

 

 あの、『モナ・リザ』です。パリのルーブル美術館にあり、レオナルド・ダ・ビンチが描いた世界で最も有名な肖像画であることは皆さんも良くご存知でしょう。

 

 僕は昔美術の世界にいたので、この絵は何度となく観てきました(残念ながら本物はまだ一度も観たことがありませんが)。個人的には、「上手いなあ」とは感じていましたが、それ以上の深い感慨はありませんでした。

 

 ところが、今回は、やけに気になったのです。

 

 もちろん、実物を見ての感想ではないので、写真という媒体を介してでの感想ですが。

 

 

 観ると、『モナ・リザ』はこちらを見て微笑んでいます。

 とても優しそうに。

 

 でも、今回はその微笑んだ表情がどこか不気味に感じられたのです。

 その笑顔が偽りのように感じた・・・

 と言ったら言い過ぎでしょうか?

 でも何度観ても・・・僕にはそう感じられる。

 

 

 どこからそのような感じを受けるのか?

 

 まず、表情。口元はわずかに下への弧を描いていて、左側の口唇は右側に比べやや急な角度で頬方向に上がっています。頬も頬骨の存在を感じさせるように微妙に隆起している。ただ、口はしっかり閉じられているので、笑っているというより「微笑んでいる」と感じます。

 でもね、よ〜く観ると、この顔、鼻を中心に左右の表情がわずかに違いませんか?

 先程の口端は、右側より左側の方が上がっている。目も、左側の方が右側より優しいように見えます。右目の眉の輪郭も左よりきつい。 しかも、左側の瞳は僕の方を見ているようなのですが、左側は僕の方を・・見ているようで・・見ていない・・・!

 というか、もっと遠くを見つめている・・・

 言い換えれば、僕の内面を見ている・・・そんな印象を受けるのです。

 

 背景に目を移すと、遠くには激しく尖った岩山が連なり、向かって右側にはやはり固い岩でできた台地、左側には湖、曲がりくねった道や橋等が描かれていますが、そこには人の気配は全く感じられません。そこには、人が住めるような暖かくて柔らかい雰囲気を感じさせない荒涼とした景色が広がっています。

 

 そんな景色を背にして、彼女は椅子にもたれかかり、こちらをじっと「見ている」・・・?。

 両手は交差していますが、左手の上に添えられた右手はやけに大きく、ふくよかではありますが左手に比べるとややむくんだ印象を受け、またこれも不気味に感じます。

 この人とは、ちょっと手をつなぎたくないな(笑)。

 

 彼女の姿は、あたかもスポットライトを浴びたかのようにボーッと明るく浮かんでいますが、背景の荒涼とした風景が、いっそう彼女の姿を際立たせています。

 

 

 僕は、『モナ・リザ』を観ていると、僕が彼女を観ているというより、僕が彼女に『観られている』ように感じます。

 

 それは、先程指摘したように、左右の顔の表情が微妙に違うからなのではないか?

 つまり、彼女の左側は僕の外見(表面)を見ていて、右側は僕の心(内面)を見ている。彼女の表情〜心〜に、二つの彼女の『意思』みたいなものを感じる。

 だから、怖いのです。見透かされているような気がして。

 

 それに加えて、背景の寒々とした人を寄せ付けないような荒涼とした世界。

 そういう一つ一つの画像のアイテムが、不気味さを感じさせるように思います。

 

 

 すごく不思議な絵です。

 

 

 一見、美しい女性の肖像画ですが、何か、美しい具象画の世界を超えた絵のような感じを受けます。

 

 

 彼女の前では偽れない。

 全て彼女に見透かされてしまっている。

 自分の弱さもドロドロとした醜い部分も、全て。

 

 この絵が世界中の人々を魅了して止まないのは、『モナ・リザ』がただの美しい肖像画というだけではなく、彼女が観る者の内面に否応なく入ってきて自分と向き合わなければならない感覚になるからではないか?と思ってしまいます。

 そこに、ダ・ビンチのすごさがあると思うのです。

 

 

 そういえば、あのパブロ・ピカソも、人の顔にいくつもの表情を組み合わせてキュビズムという世界を生み出しました。

 人は外見だけではわからない部分(内面)を持っていてそれもひっくるめて一人の「人」だから、彼は一つの顔にその人の全てを表現しようとした。

 

 でも、ダビンチの『モナ・リザ』を観ると、そのキュビズムのはしりがすでにここにあるのではないか?と感じてしまいます。

 ただ、ピカソの絵は、造形があまりにもデフォルメされているために漫画チックになって、こちらが内省させられるまで迫ってくるまでには至らないのですが、ダビンチの『モナ・リザ』は写真のようにリアルなので、より僕たちの内面に迫ってくるのではないかと思います。

 

 『モナ・リザ』のモデルは、フィレンツェの裕福な商人フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻リザ・デル・ジョコンドと言われていますが、この絵を観ていると、先程指摘したような画像上のアイテムや中性的な顔立ち(骨太の顔の骨格などから男性のようにも見えませんか?)から、リザ・デル・ジョコンドの姿を借りた別の存在が僕を「観察している」ような錯覚に陥ります。

 

 

 本当に、本当に、不思議な絵です。

 

 

 いつか、本物を観てみたいです。

 

 

 

(p.s)

 

 『モナ・リザ』のように、観た瞬間に内省させられる体験をした絵がもう一枚あります。ジョルジュ・ルオーの『聖顔』という作品です。

イエス・キリストの顔を描いた作品で、長坂の清春白樺美術館にあります。また、興味がある方は是非一度観に行ってみて下さい。

 小さな美術館ですが、質の高い美術館です。オススメです!

 

 

 

 

『モナ・リザ』・・怖い                2014/4/20

 

 

 

 

 

 

渡辺淳一さん逝く

 

 小説家であり医師であった渡辺淳一さんが、4月30日に亡くなられたと新聞の記事で読みました。

 

 渡辺さんは、ドラマや映画にもなった「失楽園」や「愛の流刑地」等たくさんの作品を世に送り出した作家です。

 僕の大好きな作家の一人でした。たぶん、彼の作品はほとんど読んでいると思います。数年前札幌を訪れたとき、彼の記念館にもお邪魔しました。

 

 人間の弱さ、切なさ、かわいらしさ、欲深さを、特に男女の恋愛を通して表現した作家です。彼の作品は、多くの女性からも支持されました。

 

 もう、新しい作品に触れられないんだな・・・

 

 そう考えただけで、とても寂しくつらいです。

 

渡辺さん、また天国で新作をたくさん書いて下さいね。

 

 

 

ダンディズムが一人消えました               2014/5/8

 

 

 

 

 

もうすぐ最初の決戦です

 

あと、一時間を切りました。

 

FIFAW杯予選リーグ『日本 vs コートジボワール戦』

 

今、No17 長谷部誠のユニフォームを纏って祈っています。

 

 ザッケローニ監督を始め代表メンバーやそれを支える関係者の強い想い、さらに、日本のサポーターの願い・・・それが大きなエネルギーになって、元気がなかった僕のこころを自然に突き動かしています。

 こんなに自分の心にエネルギーが残っていたんだなとビックリしています。

 

 

 日本国民として、彼らは誇りです。

 

 そして、僕たち一人一人サポーターも、他国のサポーターと戦う選手です。

 

 

 自分たちのサッカーを、堂々と楽しんでやってほしい。

 

 最後は、自分を信じること、そして・・・祈り。

 

 

 

攻めて勝つ                     2014/6/15

 

 

 

 

 

 

 

 

 

してやられた

 

やられた・・・

 

負けました・・・W杯初戦のコートジボワール戦。

 

 

最初は良かった。少なくとも本田が先制点を入れるまでは。

でも、今日の日本代表はいつもと違っていました。

 

 本来の日本の攻め方は、フォワード、ミッドフィルダー、バックがコンパクトにまとまり、できるだけバックラインを押し上げて細かいパスワークをしながら全員で攻めるという攻撃的なスタイルでした。そしてこれは、守りを固めてカウンター狙いという従来の戦法から脱却した、ザッケローニ監督が作った新生ジャパンのスタイルのはずでした。

 ところが、今日はその姿が全くと言っていいほど見られなかった!(涙)。なぜ!?

 

 バックが引いてしまっていたため、中盤にスペースが空き過ぎ、お互いの距離が遠いために、細かいパスではなくロングボールでのパスを出さざるを得ない。そうするとパスを受けるフォワードは長い距離を走らなければならない。そんなことを繰り返してると、強烈に蒸し暑いブラジルの環境ではスタミナ切れが早く来る。

 後半になると選手達は体力が消耗し、みるみる足が止まっていきました。走らなければいけない選手も走れない。パスミスも増える。そして焦る・・・悪循環です。

 

 コートジボワールの方が試合巧者でした。

 

 

 もう、後がありません。次のギリシャ戦、コロンビア戦の両方を勝つくらいの気持ちがなければ予選リーグ突破は難しいでしょう。引き分けではダメです。

 

 

 これからが、日本の本当の実力を試されるのだと思います。ここからあきらめずにどこまで自分たちのサッカーをやれるか・・・それにかかっていると思います。

 

 今日の試合結果を引きずらずどれだけ冷静に前向きに考えて闘えるか。今、日本チームの真価が試されている。そして、僕たちサポーターも試されている・・・そう思います。

 

 技術は大事だけど、最後に勝敗を決めるのは気持ちだと思います。

 実際、今日行われたウルグアイvsコスタリカ戦でも、はるかに格下のコスタリカ(この国には先日の親善試合で日本は勝ってます!)が優勝候補の一つでもあるウルグアイを破るという大番狂わせが起きています。

 

 

 最後まであきらめずに、自分の力を信じてモチベーションを保ち、自分らしい闘いをする・・・そういうチームが勝ち残っていくんだと思います。

 

 

 サッカーを観ていると、生きるために大事なものを教えられます。

 

 

 とにかく、まずは今日の結果をクヨクヨせずに、頭を切り替えて次のギリシャ戦に集中する・・・それだけです。

 まだ可能性が絶たれたわけではない。わずかな可能性があるならば絶対にあきらめない。

 

 今、サポーターの一人としても、自分にそう言いきかせています。

 

 

 

 

本当の勝負はこれから                   2014/6/15

 

 

 

 

 

 

もう一言・・・

 

 今日は、試合が始まって早い段階で本田が先制点を取りました。それは、何より大事だしうれしいことなのですが、実はそこに落とし穴があったのでは?と思うのです。

 

 絶対に勝ちたいと思うからこそ、絶対に点を取られたくない・・・そういう気持ちが働くと、リスクを侵して攻めるよりも守ろうという気持ちが強くなり心も体も柔軟性を失っていく。そうなってしまったら気持ちの上ではもう負けている。

 

 だから、今日の試合は、勝っているにもかかわらず勝っている気がしなかった。常にどこか重苦しい不安感がありました。安心して観ていられなかった。

 それは、攻めていないから。

 

 相手に勝つためには、先取点を取っても油断してはいけない。守りに入ってはいけない。常に攻め続ける姿勢が必要なのです。攻め続ける姿勢こそ唯一の安心感を得る方法なのです。

          

          『攻撃は最大の防御なり』

 

 でも、今日は攻めずに守りに入ってしまった。その証拠に、バックラインが引いてしまい高い位置を保てなかった。だから、防戦一方で、結局は必死に攻めてくる相手に追いつかれ追い越されてしまった。

 

 今日の敗戦は、技術の差というよりメンタル面の差だと思います。 日本の方がコートジボワールよりメンタル面で負けていた。

 

 だから、ショックが大きいのです。選手もサポーターも。むしろ、技術の差で負けた方が、あきらめがつくしショックも軽かったでしょう。

 

 

 そういう意味でも、やはり「気持ち(メンタル)」というのは大事なんだなあと痛感させられた試合でした。

 

 

 

 

サッカーは人生そのもの                  2014/6/15

 

 

 

 

 

 

 

今選手達は・・・

 

今、W杯の日本代表選手達は、どんな気持ちでいるんだろう?

 

この間の屈辱的な敗戦から気持ちを切り替えられていれば良いのですが。

 

 昨日は、前回の南アフリカ大会で優勝したスペインがチリに完敗し、今大会から去ることが決まりました。あのFIFAランキンング1位の「無敵艦隊」スペインが・・です。スペインは、今大会ではまだ1点もゴールを挙げていません。

 W杯は怖い・・・。こういう信じられないことが起こる。

 

 W杯に出場するくらいのレベルになると、どのチームも技術の差はほとんど無いと言っていい。だから、勝敗を決めるのはメンタル面の強さなのです。

 

 先日のドイツvsポルトガル戦を観ていても、メンタル面でドイツはポルトガルに勝っていた。圧倒していました。

 ポルトガルは、徐々に点差を広げられるうちに焦りと苛つきが出て、ドイツの選手に頭突きをして一発退場(レッドカード)になる選手も出る始末。これは、既にメンタル面で負けてしまっている証拠です。 

 こうなると、チーム全体の雰囲気は更に悪くなり自滅していく。

あのシーンを観て、今日はポルトガルは負けるなと思いました。案の定4-0でドイツの圧勝。試合後、呆然と立ち尽くす去年のバロムドール(年間最優秀選手に贈られる最高の栄誉)のスーパースター、クリスチアーノ・ロナウドの表情が何とも切なかった。ポルトガルも強豪です。まさかこんな展開になるとは思ってもいなかったでしょう。

 

 おごり、慢心、不安、恐怖、気負い・・・このようなちょっとしたマイナスな心理的要素が勝敗を大きく決定づける。

 本当に怖い世界です。

 

 真に強いチームは、高い技術はもちろんのこと、選手一人一人が相手を凌駕する程の強いメンタリティーを持っています。

 

 やはり、人間が行う営みの全ては、最後はメンタルの要素が大きく関わるのでしょうね。なぜなら、人間は他のどの生物よりも感情が豊かで、それが人間を人間足らしめるものだから。

 その、やっかいな『感情』という怪物?をどこまでうまくコントロールできるか・・・。成功の鍵はそこにあるのでしょう。

 

 

 明日のギリシャ戦。日本代表には、是非メンタル面でもギリシャを圧倒してほしい。どんな状況であっても、攻めて攻めて攻めまくる。最後の一秒まであきらめず、勝つことを信じて闘い抜く。終始、冷静さは失わないで。

 

 もう、この間のような惨めな日本代表は見たくない。

 

 そして、僕たちサポーターも、最後まで攻めの気持ちで応援しなければなりません。

 

 最近、いろいろなことで気弱になっている僕ですが、自分に喝を入れる想いでこの文章を書いています。

 

 

*追伸*

 

 明日の試合は、仕事のために生で観られないのが残念です。ちゃんと仕事に集中できるかな(笑)?

 

 

 

 

人間って不思議な動物                2014/6/19

 

 

 

 

 

 

 

奇跡

 

先日のギリシャ戦で0-0のドローで終わった日本。

 

 もう、決勝トーナメントへ進出の可能性は風前の灯火です。

今までのW杯で、今の日本と同じ条件で一次リーグをを突破して決勝トーナメントに進出したのはトルコだけだそうで、その確率は2.2%だそうです。

 でも、可能性は0%ではありません。2%でも可能性があるなら、まだまだあきらめてはいけない。

 

 今回のW杯では、強豪が一次リーグで姿を消す大波乱が起こっています。スペイン、イングランドなど、優勝してもおかしくない国が既に一次リーグ敗退が決まっています。

 その一方で、開催前には全く有力視されていなかったコスタリカやチリ(チリは前から強いけど)などが強豪国を次々と打ち負かし大波乱の立役者となっています。

 

 やはり、W杯は「魔物が棲んでいる」と言われるように、何が起こるかわかりません。

 

 しかし、それは「奇跡」も起こり得るということ。

 

25日のコロンビア戦は、是非、日本チームが『奇跡』を起こしてほしい。

 

 コロンビアは、同リーグでは最強で南米でもブラジル、アルゼンチンと並び強豪中の強豪ですが、もし、日本がコロンビアに大量得点差で勝利し決勝リーグに進めば、『クイアバの奇跡』としてサッカー史上に残ることでしょう。

 

 僕は、日本にはその力はあると思います。

 

あとは、あまりせこい作戦はとらないこと。

 もう一度初心に還って、今まで布いて来た基本的な布陣にし、シンプルに自分たちのサッカーをすること。また、時には監督の思惑とは違ってもいいから、自分の判断でシュートや相手陣内への突破を図ること。

 とにかくシュートを打つこと!ボールをサッカーゴールにを叩き込むこと!

 奇麗にプレーしようと思わずに、貪欲に泥臭くゴールに向かうこと!

 

 サッカーは、フィールドでの戦争です。国と国がプライドをかけて闘うのです。奇麗な試合をやるだけではダメです。負けたけどよくやったね!ではダメなのです。

 結果が全てなのです。勝たなければ何もならないのです。

 まだ、やっとW杯に出られた昔のレベルではそれで良かった。でも、今はそれでは誰も満足しない。日本の技術レベルは上がり、アジアの雄としての誇りと期待を背負っているからです。

 

 『クイアバの奇跡』、是非起こしましょう!

 

 そうすれば、世界は日本を見直すことでしょう。

 

 

 

奇跡は最後まであきらめない者にもたらされる     2014/6/22

 

 

 

 

カオス

 

日本代表のW杯は終わってしまいましたね(涙)。

 

最後まで、自分たちがやって来たサッカーを大舞台で見せられなかったのが悔しいです。

 

 

さて、今日、日本精神神経学会(横浜)から帰ってきました。

帰りのあずさの中での僕の心は混沌としていました。

 

 学会のプログラムは多岐に渉っていて、診断、治療法など様々なテーマで講演が組まれています。

 

 いつもなら、普段自分が知らなかったような知見に巡り会って感動したり示唆を受けたりするのですが、今回の学会では、どこか外野から眺めているような冷めた自分を常に感じていました。

 

 今回はDSM-4という診断基準(アメリカ精神医学会が定めた診断基準)がDSM-5に変わったことがトピックとして取り上げられ、また、それぞれの疾患についての薬物の効能や精神療法の様々な方法論(認知行動療法、力動的精神療法、精神分析療法等)による話題が相変わらず取り上げられていました。

 

 僕が冷めてしまっていたのは、プログラムのほとんどが実証主義を意識してなのか、医師としてのアプローチ論がマニュアル化的な要素に偏りすぎているのではないか?と感じたためです。

 

 学問ですから、誰にでもわかる、普遍的であるということは大事だということはわかります。また、治療は誰がやっても同じようなメリットが患者さんにもたらされなければならないというのもわかります。

 でも、それをあまり意識しすぎると、診断や治療が操作的かつフローチャートのようなマニュアル化してしまう危険性があります。

 

 それは、『人』が『人』を診る(観る、看る)という医学の基本を忘れてしまうことになりかねない…そんな危惧が僕にはあったのです。

 

 精神医学は「心」を扱う学問です。患者さんの心を「観て」、「診て」、「看る」行為です。

 

 心は目に見えません。だから、その行為は極めてわかりづらいし曖昧なものにならざるを得ません。内科のように心の状態が血液検査ではっきりするものではないし、レントゲンを撮れば心の病巣を見れるわけでもありません。

 もともと実証的ではない学問、実証的にはなり得ない学問・・それが精神医学なのです。

 

 でも、そこに精神医学の他の学問にはない魅力と大事な本質があると思うのです。

 

 目に見えないからこそおもしろい。不思議だし、神秘的なのです。

 なぜなら、人間の心が不思議だし、神秘的だから。

 

 あの「星の王子様」のなかでも、狐が王子様にこう諭すじゃありませんか。「本当に大切なものは目に見えないものだよ」と。

 

 だから、僕は身体科などを意識しすぎて実証的にならなければなんて考えるのは野暮だと思うのです。曖昧な学問と言われるならそれでいい。言わせておけばいい。

 そもそも、人間ほど曖昧な動物はないのだから。もっと堂々としていれば良いのです。

 

 ラボデータや画像データなどがなくても、そんなもので状態を説明できなくても、患者さんの話を良く聴き、受容・共感し、推理し、患者さんの心と交流していけば、自ずと患者さんの生き様〜こころのストーリーが見えてきます。それが充分にしっかりしたものであれば、どんなひとでも説得できる力を持つものです(もちろん、それを成し遂げるためには精神医学の基本的な知識や様々な経験が必要ですが)。

 

 何はともあれ、『人』が『人』を診る営みが精神医学なのだということを忘れてはなりません。

 

 医師という『人』と患者という『人』が出会い、心を通わせ合い、そこに新たな『何か』が生まれ、患者が忘れていた自分らしさに気づきそれを取り戻していくこと・・それが治療だと考えています。

 

 例えば、今から約40年前に発表された「笠原・木村分類(1975)」という優れた気分感情障害の考察は、注意深い観察眼、傾聴する姿勢と共感、温かく見守る姿勢から生まれたものであるに違いありません。だから、年月を経た今も輝きを失っていないのです。

 

                       『温故知新』

 

 実証主義的傾向が強まる今だからこそ、もう一度大先輩達の姿勢を学ぶべきではないか?

 帰りのあずさで、強くそう思いながら混沌とした心持ちで帰ってきたのでした。

 

 さあ、明日からまた仕事だ。

 

 

 

 

混沌(カオス)は新しいエネルギーの源        2014/6/29

 

 

 

 

 

 

 

 

「安心」が欲しい

 

 

安心がほしい・・・

 

心からそう思います。

 

個人的にも、日本という国の在り方にしても。

 

最近、「安心」が少しずつ減って来ているように思います。

 

大雪や大雨、巨大な台風に竜巻・・・

昔は考えられなかった気象の変化。地震のような大災害。

 

凶悪犯罪や脱法ハーブによる傷害事件、増え続ける自殺。

モラルや人の命が軽んじられているとしか思えない暗いニュースの数々。

 

国民の意志に反した政治の在り方。憲法解釈をいとも簡単に変えてしまう恐ろしさ。この国は、いったいどこに向かっているの?

 

モンスターペアレンツ、モンスターペイシャントといった自己中心的な考え方しかできない自己愛型人間の増加。

 

都合が悪くなると「うつ」になる新型うつ病の出現。これも、ストレス耐性が脆弱で他人のせいにする自己愛型性格傾向の人達が作った病?

 

テレビをつけても、タレント参加型のバラエティー番組がほとんどで気分が安らぐような番組は乏しい。

 

人間的な深い関わりを避けようとする若者達。

「汗をかくとベトベトして気持ち悪い」といって体育を休む潔癖性的な生命力の弱い子供達の増加。アトピー性皮膚炎も、皮膚の抵抗力が弱くなっているということ。体も心も抵抗力が弱い子供が増えている。それは、過酷な環境でもまれていないからではないか?

 

いっこうに進まない被災地(東北大地震)の復興。地下水汚染が発覚した福島第一原発。

 

貧弱な老後政策。年金は減らされるばかり。だから、最近はお年玉もあげたくてもあげられないと嘆く高齢者が多いと聞く。

 

 

今の日本には明るい将来を見い出せない。

どこか、いつも不安。

 

それは、個人的にもそう。毎日不安。

 

どうしたら、この「不安」から開放されるんだろう?

 

誰も理解してくれない。誰も助けてくれない。

 

結局は、自分は自分で助けるしかない。

 

不安とうまくつきあうしかない。

 

人生は、生きるとは、本当に本当に大変だ。

 

僕のアイデンティティーを保つ唯一の方法は、精神科医として少しでも患者さんのそばにいること。

自分の使命を全うすること。

それしかない。

 

 

 

 

人はいつも不安で孤独                2014/7/10

 

 

 

  

ごぶさたしてます

 

長い間、ブログの更新をご無沙汰していました。

 

 当たり前のことですが、自分が自然に書きたいと思わなければ書くべきではないと思っています。書くことが義務のようになってしまってはいけませんよね。

 

 生きるのは大変だ・・・つくづくそう思います。

 

 ブログを書くのは、ある程度のエネルギーと書きたいという自然な気持ちが必要ですが、ここ数ヶ月は、書きたいことはいろいろあるのだけれど、なかなかそのエネルギーが出てきませんでした。

 なのでご無沙汰してしまっていました。

 

 まだ、エネルギーは充分とは言えないのですが、最近患者さんから「先生、ブログはまだですか?楽しみにしていますよ!」と声をかけられるようになり、何が出てくるかわからないけど、とりあえず何か書いてみようと思い、今筆を取っています。

 

 

 先日、ある患者さんから「先生、生きる意味って何ですか?」と聞かれました。

 

 めちゃめちゃ深い問題なので即答はできませんでしたが、しばらく考えてからこう答えました。

 「僕自身、生きる意味はわかりません。わかって生きていないと思います。ただ、よく考えてもわからないということは、生きる意味はないのかもしれない。そう考えたらどうでしょう?」

 そして、またこう付け加えました。

 「もし、生きる意味があったらしんどくないですか?その意味から外れて生きていたらプレッシャーになりませんか?だから、僕は、生きる意味がない方が楽な気がします」

 

 例えば、人間以外の生物は生きる意味を考えて生きているのでしょうか?少なくとも、家で飼っている犬はそれをわかって生きているようには見えません。そんなことより、最近多い雷の音のことを気にしているようです。では、植物はどうか?診察室にもパキラという観葉植物がありますが、生きる意味を考えながら生きているようには見えません。外から入ってくる光を少しでも多く浴びようと、それぞれの葉が重ならないように必死に窓に向かって伸びていることはありますが。

 

 いずれも、生きるために生きているようにしか見えません。

 

 与えられた生があるのなら、それが尽きるまで全うする。そこには意味はないのではないか?

 

 そう思うのです。

 

 僕の浅薄な知識の範囲で言わせてもらえば、生きる意味を明快に教えてくれる書物にはまだ出会ったことがありません。聖書や般若心経、ギリシャ哲学、ドイツ哲学等もかじりましたが、そんなことはどこにも書いてありませんでした。

 

 そもそも、生きるのに意味や目的はないのではないか?

 

 もしそれが真実だとすれば、「なぜ生きるのか?」という問い自体が無意味だということになります。

 

 

 でも・・・生きる意味はないとしても、生きるってつらいですよね?

 苦しいですよね?

 生きるって、そんなに簡単なことじゃないから。

 

 だから、何か生き続けるための支えのようなものがほしい。そう思うのです。

 

 

 では、生きるとはどういうことか?

 

 全ての生物を見ていて思うのは、「生きる」営みとは「気持ちよくなる」営みなのではないか?ということです。

 

 生物を構成している無数の細胞の一個々々は、その細胞の状態が少しでも安定して気持ちのよい状態になることを指向しているのではないでしょうか?そうでなければ、細胞が構成している一個体は病んでしまい、最悪の場合は死んでしまうでしょう。

 

 植物が自然に太陽に向かって葉を伸ばすのは、葉を構成している細胞が光合成をして栄養を作り、その植物をベストなコンディションにするため。

 家の犬が雷を気にするのは、大きな音のために恐怖心が出ないようにするため。

 

 じゃあ、人はどうでしょう?

 気持ち悪くなりたいと思って生きている人はいないでしょう?

 誰だって気持ちよくなりたいと思っているのではないでしょうか?

 

 だから、生きることに意味はないと思うけど、生きるためには〜生き続けるためには〜気持ちよくなければならないと思うのです。

 

 生きるとは気持ちよくなること〜こころもからだも気持ちよくなること〜それが生きるということだと思うのです。

 

 言い換えれば、気持ちよくなければ、生きるのがつらいし生きていけない・・・そう思います。

 

 

 ところが、昔から、日本人は「気持ちよくなること」に対して消極的というか、ある種罪悪のように捉える傾向があるように思います。

 

 気持ち悪いのを我慢して耐えること、そして、それを人に知られないように生きること・・・それが美徳のような文化。武士道の影響もあるのかもしれません。

 だから、「気持ちよくなりたい!」って堂々と言えない雰囲気があるような気がします。

 

 僕は、この考え方を全て否定するつもりはありません。そこには、大事な要素も含まれているとは思います。

 

 でもね・・・、もう少し、頭(常識や義務、義理、責任などに支配される世界〜建前)よりこころやからだ(本音を大切にする世界。気持ちよくなりたいという素直な世界)を大事にできる価値観があっていいと思うし、個人々々のレベルでもそれを大事にし合えたら素敵だろうなあと思います。

 

 そういう価値観の方がホッとするからです。

 

 

 

 

 

もうすっかり秋 寂しい季節                2014/9/24

 

 

 

 

 

御嶽のバカヤロー!

 

信仰の山、御嶽山にこんな暴言を吐いたらバチが当たるかもしれない。

      御嶽山に関係する方々、ごめんなさい。

 

 でも、今回の災害はあまりにも悲惨すぎる。だから言いたい。

 

「バカヤロー!御嶽。お前は、何でこんなにたくさんの人達を殺したんだ!」

 

「ある人はお前を美しく想い、ある人はお前を愛おしく想い、ある人はお前を神と崇め、心からお前に会いたいと思ってやって来た人達だ。そういう人達の想いを、お前は噴石と灰と熱風と硫化水素ガスで殺し負傷させ裏切った。しかも、よりによって、一年で一番観光客が多い季節と時間帯に。

 なぜなんだ!!

 なぜ、そんなに残酷なことをする?

 本当に、お前はバカヤローだ!! 

 俺は、金輪際お前のことを好きにならないだろう」

 

 今回、災害に巻き込まれた方々は本当に気の毒だ。本当にかわいそうだ。そしてその遺族も。ただ、御嶽を楽しみたいと思い訪れただけなのに。その人達には、何の罪もないはずだ。

 

 一方で、遭難者の救出にあたっている消防隊や自衛隊の人達はすごい。自分の命を張って働いて下さっている。本当に頭が下がる思いだ。

 

 

 そもそも、今年は年明けからおかしかった。大寒波と100年ぶりの大雪。ほとんど春らしい春はなく、雨ばかりの蒸し暑い夏。それも、夏ってあった?っていうくらい短く感じた。そして、観測記録を塗り替える規模のスコールのような大雨と洪水、土石流。広島の災害も、多くの犠牲者を出すひどいものだった。そして、今回の噴火による災害。

 

 いったい、最近の自然はどうなってるのか?

 

 僕が子どもの頃は、もっと四季がはっきりしていて、それぞれの季節「らしさ」を充分に堪能できた。子どもでも、季節や気候の変化の予測がついた。

 でも、最近は季節が季節らしくない。我々の予測を裏切る。自然が昔のように優しくない・・・。自然が怒ってる??・・そう感じる。

 

 これは、人間が自然を破壊して来た代償なのだろうか?自然の人間に対する復讐なのだろうか?

 

 東北大震災から始まり、ここ数年で今まで経験しなかったような自然災害が頻発している。この瞬間にも、瞬間最大風速80m/secという聞いたこともないような規模の超巨大台風が日本を目指して北上中だ。

 

 世の中に目を移しても、嫌な暗いニュースばかり。

 平気で人を殺したり虐待したり・・・。「ただ殺してみたかった」という理由だけで同級生を殺してしまう女子高生。たいした思想もないのに、ただ人を殺したいというだけで「戦士になる」と言ってイスラム国に行こうとした大学生。そして、それを知りながら諭したり叱ったりもせずに渡航を援助する元大学教授。皆、バカじゃないの?

 人の命を何と思っているんだろう?その感覚が信じられないよ!若者達の間では命の重さが軽くなっているのか!?今の日本社会が病んでいる証拠だろう。

 政治家達といったら、東北の復興に積極的に取り組んでいるようには到底見えないし、こんなに地震・火山大国なのに、性懲りもなく原発を再稼働させようと躍起になってる。チェルノブイリ原発事故に匹敵するくらいの大惨事でたくさんの方々が亡くなられたり転居を余儀なくさせられてるのに、それを忘れてしまったかのように「安全だ、安全だ」と言いながら復活させようとしている。どこが安全なんだ??安全じゃないことくらい小学生だってわかるよ!

 その背景には、政治家・官僚と原発やそれを取り巻くコンツェルンの利権が見え隠れする。この国の政治家や官僚は、どこまで愚かなんだろう?

 

 今の日本の社会には、国民一人々々が大事にされるということや安全が保障されるという視点が乏しいように思う。

 

 人間に優しくなくなってきている自然と政治と社会。

 

 だから、僕たち国民には常に漠然とした不安がある。昔より、将来への希望が持てなくなってきている・・・そう感じる。

 

 

 

俺は御嶽が嫌いだ                  2014/10/3

 

 

 

 

 

 

 

 

喉が痛い

 
7日の午後の診察中、突然喉の痛みと寒気に襲われました。
 
 喉を触ってみると、左側がわずかに腫れています。そのうちに、全身倦怠感や筋肉痛が出てきました。
 直感的に、これは普通の風邪じゃないなと思いました。
 
   最初は、喉の腫れはリンパ節なのかな?と思い、EBウィルスによる伝染性単核球症などが頭をよぎりましたが、発現機序から考えるとあり得ない。症状はインフルエンザにも似ているのですが、喉の痛みがあまりにも強いのと時期的なことから違うのではないか?と思いました。
    
   翌日8日は診察日だったので頑張って出勤しましたが、もう朝から喉の痛みは強烈だし全身はだるいし寒気がすごいので、診察中もジャンパーを着ざるを得ないくらいでした。体温を測ったら、39.1℃。悪寒が走るはずです。喉が痛くて、物も喉を通りません。なんとか脱水は防がなきゃと、水分摂取に努めました。
   そんな感じで、やっとの思いで8日は乗り越えて、9日はクリニックが休みだったので富士見高原病院に行きました。僕の古巣です。懐かしいスタッフが声をかけてきてくれたのは、とても嬉しかったです。
    皆さん、ありがとう。
     
    診断は、急性扁桃炎。なるほどという思いと、なんで?という思いが入り混じっていました。
   
 扁桃炎は、小さい頃友人がよくかかってましたが、僕は一度もかかったことがなかったからです。扁桃炎は、体の免疫力が下がった時に、常在菌(普段、体の中にいる菌。体の抵抗力があれば悪さしない)が活発化し症状をもたらす病気です。放っておくと、扁桃腺の腫れで気道が塞がれて窒息することもある怖い病気です。
   
   僕がショックだったのは、この病気になったということは免疫力が下がっているということを認めざるを得ないからです。自分でも気づかないうちに、疲れやストレスがたまっていて免疫力を下げていたのでしょう。その点はあまり自覚していなかったので、今回はとてもショックでした。
 
  今日もまだ、微熱とだるさ、喉の痛みは残っています。大きな声は出せず、動くとすぐに疲れます。抗生物質と解熱薬は飲み続けています。 でも、今日と明日頑張れば連休に入り体を休めることができます。    今日もなんとか頑張ろうと思います。
 
 診察中は、患者さんにはわからないように笑顔で応対しているのですが、なぜか「いつもと違って元気がないよ」「先生、体の調子が悪いんじゃないの?」と指摘してくる患者さんがいらっしゃるのです。 しかも、一人や二人ではありません。何人もです(汗)。
 どこで気づくんだろう?と思います。患者さんは、御自分がつらい思いをされているから、弱っている人の気持ちがわかってしまうのかもしれませんね。本当に、皆さん優しい方々ばかりです。
 
 「先生、体は大事にしてね。先生がいなくなったら、私たちは困るんだからね!」と笑いながら診察室から出て行かれる患者さんに、どちらが医者か患者かわからないような・・・、ただただ感謝と申し訳なさと器の大きさと暖かさをその去り行く後ろ姿に感じ、たくさんの勇気も頂いています。
 
 医者も、こうやって患者さんに育てられていくんだなあと思います。
 
     
      本当に、皆さん、ありがとうございます
 
      
   
 季節の変わり目は体の調子を崩しやすいです。
    
   皆さんも、体は大事にして下さいね。
 
 
 
 
 
寒い朝も熱で暖かい                                               2014/10/10
 
 
 
 
 
 
 

気持ちよくなるということ

 

以前、生きるということには意味や目的はないけど、気持ちよくなることを指向しているのは皆同じではないか?と書きました。

 

 では、気持ちよくなるとはどういうことでしょうか?

 

 まず頭に浮かぶのは、人間には心(感情)と体(五感)がありますから、気持ちよくなるというのは、これらが満たされることなのでしょう。

 例えば、受験で志望校に受かった時は、努力が報われた達成感と誇らしさで心が満たされるでしょう。また、自分の大好物を食べた時は美味しい!と感じて食欲(体)が満たされるでしょう。

 このように、僕たちの心や体が要求することがその通りになれば、気持ちいいと感じますよね?逆に、これらが要求通りにならなければ嫌な気持ちになります。

 

 ただ、僕達の気持ちよさにも、その性質で考えてみると二通りあるように思います。

 つまり、その場だけの(刹那的な)気持ちよさと、ずっと長く続く(永続的な)気持ちよさ。

 

 例えば、先程例に挙げた、受験校に合格することや大好物にありつくことは、その瞬間は満たされますが時間が経つうちに徐々に「気持ちいい感」は減っていきます。なぜなら、こういう感覚的なものは必ず時間とともに変化したり減っていくからです。

 

 宝くじが当たったり、望んでいた車を購入したり、美味しいものを食べたり、好きな人とつきあったり、昇進したり、目指していた第一志望校に受かったり、マイホームを購入したり、食事をおごってもらったり、エステでマッサージしてもらったり etc...

 

 こういうものは、その瞬間はとても気持ちがいいのですが、時間とともにその気持ちよさはだんだん薄れていきます。

 つまり、こういう喜びは永続的ではないのです。自分の望み通りになっても、永遠に気持ちいいわけではないのです。

 きっと、慣れ、忘却、もっと気持ちよくなりたいという貪欲さなどが、最初の気持ちよさを変化させていってしまうのでしょう。

 ですから、たとえこういったものを手に入れられたとしても幸せにはならないでしょう。満たされないでしょう。人間の欲求には限りがないからです。

 

 では、永続的に気持ちよくなることは不可能なのでしょうか?

 

 先程、最初の気持ちいいという新鮮な感動が変化したり減ったりしてしまうのは、人間がもともと持っている習性があるからではないか?と書きました。もしそうならば、気持ちいいと感じる自分が持っている習性が変化させてしまうのだから、自分が求めて「与えられるもの」からは永遠の気持ちよさは得られないのではないか?

 

 永続的な気持ちよさは、人から「与えられるもの」からではなく、人に『与えるもの』から得られるものではないか?

 

 最近、そう考えるようになりました。

 

 『与える』ということは、自分の持っているもの(何でも良いのです)を人に与えることによって、その人が気持ちよくなってくれること・・・。

 

 例えば、車内で高齢者の方に席を譲ってさしあげたとき、その方がホッとした表情をされたら嬉しいですよね。何とも言えない気持ちよさがこころの中に広がります。そして、こういう気持ちよさは、自分が他人から受けた気持ちよさよりも深くて長く続く気がしませんか?

 

 他人から「与えられる」気持ちよさは刹那的だけど、自分が『与える』気持ちよさはいつまでもこころの中に心地よさとして残り色あせないと思うのです。

 しかも、他人から「与えられる」気持ちよさは他人任せですから、気持ちよくなるには相手次第ということになります。いつも、`待ち’の姿勢になります。このような場合は、気持ちよくさせてもらっている間はいいけど、相手が気持ちよくさせてくれないとずっと待たなければならないのでイライラするし、もし相手がいなかったり、相手がいても何らかの事情で気持ちよくさせてくれないと相手を恨むようになります。いずれも、気持ちよくなることとは反対の方に行ってしまいますね。

 でも、自分が他人に『与える』気持ちよさというのは自分次第ですから、自分の意志や工夫次第でいつまでも気持ちよくなることができます。

 

 ですから、いつも「〜をちょうだい、ちょうだい」と言っている人(相手に依存傾向が強い人、自己愛型性格傾向の人)は、なかなか気持ちよさが長続きしません。下手すると、気持ちよくさせてくれない相手や他人、社会に対してイライラし、ひどい場合は恨みを抱くことがあります。自分が幸せになれないのは、境遇や周囲の人や世間、社会のせいだと(これはとんでもない自己中心的な考え方なのですが、大阪教育大学附属池田小学校で起きた殺傷事件も秋葉原で起きた無差別殺傷事件もこういった考え方が背景にあったと言われています)。

 

 逆に、いつも周りの人を少しでも気持ちよくしてあげたいと思って生きている人は、相手が喜んでくれると自分も気持ちいいので、周りから慕われるし必要とされるし、それによって、そこに心地よい自分の居場所を見つけることができます。

 

 

 辻仁成の『サヨナライツカ』という小説にこんな一節があります。

 

  「サヨナライツカ  

 

   永遠の幸福なんてないように

   永遠の不幸もない

   いつかサヨナラがやってきて、いつかコンニチワがやってくる

 

   人間は死ぬとき、愛されたことを思い出すヒトと

   愛したことを思い出すヒトにわかれる

 

   私はきっと愛したことを思い出す

 

 

 この一節は大好きでよく読み返します。僕は、若かった頃は愛されることを求めていましたが、今は、愛されなくても愛することを思い出せる人間でいたいと思っています。

 

 

 

 毎日、生きることは苦しいです。人生は自分の思い通りに行くことは少ないし、つらいことの方が多いからです。

 

 でも、僕は今なぜ生きていられる〜生きようと思うのか? 

 それは、生きる目的や意味はわからないけど、精神科医として患者さんと関わらせてもらっていて気持ちいいからです。

 

 本当に気持ちがいいのです。

 特に、患者さんが「先生、元気になったよ。ありがとう!」と言って笑顔で返して下さる時は最高に『キモチイイ!!』です。しかも、この気持ちよさはずっとずっと長く続きます。

 ですから、僕が一番居心地が良い居場所は診察室なのです。

 

 まだまだ精神科医としては未熟ですが、この仕事を与えられたことは僕の生きるエネルギーになっていることは確かです。

 

 こんな僕でも、皆さんに少しでも「ホッとした」「気持ちがよくなった」と思っていただけること、喜んでもらえること・・・それが、僕の究極の『気持ちよくなること』なのです。

 

 だから、明日もう一日生きてみようと思うのです。

 

 

 

 

 

 

だいぶ熱は引きました               2014/10/12

 

 

 

 

 

 

最近ちょっと怖いこと

  

最近、ちょっと怖いと思うことがあります。

 

 先日チラッと触れましたが、社会の中で 、「命」という言葉の重みが薄れてきているのではないか?という懸念があるからです。

 

 昔から猟奇事件と言われるものは時々ありました。宮﨑勤の連続少女誘拐殺人事件(1989年)、「酒鬼薔薇」少年による神戸連続児童殺傷事件(1997年)、附属池田小事件(2001年)etc...

 ただ、これらの重大事件は、いずれも精神鑑定の結果、犯人に何らかの人格あるいは精神発達上の偏りや傷害が認められています。

 

 ところが、僕が怖いと思うのは、最近そのような明らかな精神傷害が認められないかあるいは目立たない普通の人による殺傷事件が多く起きていることです。

 

 佐世保小6女児同級生殺害事件(2004年)、三重県朝日町中学生死亡事件(2013年)、佐世保女子高生殺害事件(2014年)etc...

 警察庁発表の「少年(少女も含む)犯罪」の統計を見ても、2000年から明らかに未成年による犯罪が増えています。しかも、ショックなのは、その事件を犯した少年少女がいずれも罪の意識がないか薄いということ。また、周囲からは、成績が良くて運動もできてクラスでも人気者(三重の犯人はそういう高校生だった)、周囲にはきちんと挨拶し朗らか・・・といった、重大犯罪を犯すとはとても思えないような少年少女の犯罪が増えているのです。

 昔の犯罪は、少年少女と言っても暴走族だったり、暴力団に出入りしていて近所では札付きで通っているような、いかにも「あいつだったらやりそう」という犯人像がありました。女子高生コンクリート詰め殺人事件(1989年)はその典型例でしょう。

 ところが、今はそのような印象が全くない、ごく普通もしくは優秀な少年少女達の犯罪が目立ってきています。だから、逮捕された後に「まさか、あの子が??」と近所の人が驚くのです。

 

 このような重大事件を起こさないにしても、中学生や高校生、下手すると小学生レベルでも「死ね」という言葉がよく使われているという記事が朝日新聞に出ていました。

 先日も、ある年配の患者さんが「先生、私電車で来てるんですが、車内で女子高生のマナーがとても悪いの。足を投げ出して座ったりマスカラを付けてたり物を食べていたり。怖かったのは、何人もの子が『あんな子は死ねばいいんだよ』と言ってたこと。しかも大声で」と仰っていました。

 大声で言っているということは、他の人に聴こえても恥ずかしくない意識があるからでしょう。つまり、その子達にとって、「死ね」という言葉は日常的に当たり前のように使われている言葉なのでしょう。

 恐ろしいことです。

 

 「死ね」とか「殺したい」という言葉。人間生きてると、激しい怒りや恨みを抱いて「相手がいなくなってくれたらどんなにいいだろう」と考えることはあるでしょう。でも、それは心の中に秘める感情であって、実際に言葉に出してしまったり相手に伝わるようなことをすれば、相手に恐怖感を与え相手の尊厳を奪い、それだけで人間関係を破壊してしまうでしょう。そのような言葉を言われた人は、人格を傷付けられ安心して生きる権利を奪われますから、そのような言葉を浴びせた人の行為は、社会では脅迫罪やドメスティック・バイオレンス(DV)という犯罪とみなされるわけです。

 

 子供の頃、例えば「蟻を殺してきた」なんて言おうものなら両親にこっぴどく叱られたものです。幼少期は生き物への執着がありますが善悪の見境が薄いから様々な小動物を殺してしまうことはあるのですが(小さい子は残酷です)、それを堂々と言う感覚に対して、親はNo!と言ったんでしょう。

 

 自分の「命」が大事なら他の生き物の「命」も大事にしなければならない。それぞれが一生懸命必死に生きてるから。

 それは、当たり前のことなのです。世の中には、理屈ではなく当たり前のことがたくさんあります。最近の若者達は、幼少期からそういう当たり前のことを教えられていないのでしょうか?

 

 今年起きた佐世保の高校生の同級生殺人事件。その少女は「人間の解剖に興味があったので、殺して体内を見てみたかった。別にその子に恨みはない」と淡々と答えていると聞きます。未だに謝罪の言葉はないそうです。恨みがないのに、自分の勝手な興味だけで人を殺めてしまう・・

 この感覚、ちょっと理解できません。

 

 先日、北大の大学院生が「イスラム国」の戦士⁉︎になるためにシリアに渡航しようとしていたことが発覚し、警視庁公安部に「私戦予備および陰謀の疑い」で逮捕されました。彼は、友人とトランプゲームをやっていた時、よく「戦争だ!」「殺してやる!」と叫んでいたそうです。また、渡航が決まった時「自分の葬式パーティをやろう。フィクションの世界に身を投じる」と言っていたようです。戦士、殺す、フィクション・・。これらの言葉から連想するのは、ゲームの世界です。

 最近の対戦ゲームでは、相手を殺すと点数が上がりそれがゲーマーの強さを表すようになっているそうです。フィクションの世界ですが、その世界では、たくさんの人を殺した人が強くて偉いのです。自分の名前がランキングにも載るそうです。ですから、日本中もしくは世界中の仲間と、人殺しを競い合うという空恐ろしいことが、毎日当たり前のように行われているのです。

 しかも、あくまでもフィクションですから、人を殺したりしても血しぶきがかかることもないし、相手の苦しみや自分の痛みを感じることもありません。

 これは、大変怖いことではないでしょうか?

 

 特に、自分に自信がない自己肯定感が低い人がこのようなゲームの世界の中だけで自尊心を取り戻しているような生活をしていれば、そのフィクションをノンフィクションにしてみたいという欲求が出てきても不思議ではありません。

 

 実際、その北大生は就活に上手くいかなくなってから渡航を考えたようです。つまり、人生に生き甲斐ややりがいを見いだせない〜自分に自尊心を持てない〜から「戦士」になって人を殺しに行こうということ。また「葬式パーティ」をやるというのは、将来にある種絶望しているけど自殺するほどの勇気がないか、もしくは、自殺するだけでは面白くないから、死ぬにしても自分なりに意味を付与させたいという思いが「人を殺したい」という思考につながっていったのではないか?

 「戦士」といえば聞こえが良いですが、実際はただの殺人者です。そこには、人の命の尊さや、そういうことをした後の両親や周囲の人達への影響は一切頭にはなかったのでしょう。極めて自己中心的です。

 

 先程の女子高生やこの北大生は、3.11の大震災で亡くなられた多くの人達や、広島の土石流で亡くなられた方や、御嶽山の噴火で命を落とされた方々のことをどう思っているのでしょう?

 

 人が「死ぬ」とか、自分が「死ぬ」ということをどう思っているのだろう?  『命』の重みをどう考えているのだろう?

 

 できることなら、直接聴いてみたいです。

 

 

 最近、社会が人間に優しくなくなって来ているのではないか?と書いたのは、このような『命の尊さ』が軽くなって来ているような気がしてしょうがないことも関係しています。

 

 もっと、優しさがほしい。暖かさがほしい。歴史や目上の人や高齢者の方々を敬う心がほしい。お互いを恨むのではなく労り合う情愛がほしい。

 

 心からそう思います。そして、これらは、もともと日本人が得意だった分野のはずです。礼儀やマナーやおもてなしといった文化は、日本古来からの世界に誇る伝統・文化でした。日本独自の武道、茶道、華道などは、その精神を芸術という領域にまで昇華させました。

 

 もう一度、「当たり前のこと」を親が子どもに躾けていかなければならない。

 先程「死ねばいい」と言っていた女子高生の家庭では、親もそのような言葉を使っているか、もしくはそれを叱らないで許しているかどちららかだと思います。子どもは親を見て育っていきます。だから、親がしっかりしていないと子どもも親のようになります。

 でも、このような女子高生達が親になったら、きちんと子どもを躾けられるんだろうか?また、次の世代に連鎖していくのではないか?

 とても心配です。

 

 これからの日本人は、以前のような、礼儀やマナーや人の心を大事にし、歴史や目上の人を敬うといった良い伝統を維持していけるのでしょうか?

 

 それは、今日本人として生きている僕たち一人々々の、意識と努力にかかっています。

 

 

 

 

 

木々がしなるように揺れています              2014/10/13

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一日一生

 

御嶽山の噴火で亡くなられた方々のエピソードが、毎日報道されています。それを聞いていると、本当に悲しく切なくなります。

 

 きっと、犠牲になられた方々は、まさかこんなことが自分の身に起こるなんて夢にも思わなかったでしょう。

 

 それにしても疑問に思ったのは、「火山噴火予知連絡会」のお偉い方々が、「予測不能」「想定外」などと言って、あたかも、予知できなかった自分たちには責任ないですよ〜といったような発言をしていたことです。

 

 そう言うなら、わざわざ「火山噴火予知連絡会」なんてかっこいい名前を付けなければいいじゃないですか。「火山噴火について考える会」くらいにしておけばいい。

 噴火当日、たくさんの犠牲者が出ているのにお悔やみの言葉もなく、「自然は何が起こるかわからない。だから予測するのは難しい」と表情も変えずに淡々と述べていた某大学教授。そんな姿を見ていると、犠牲者の方々のことをどう思っているのだろう?と感じてしまうし、じゃあ、あなた達は何を「予知」してるのですか??と聞いてみたくなってしまいます。

 

 もちろん、人間の浅はかな知恵では自然にかなわないことはわかっています。でも、それならそれで、科学者として専門家として、亡くなられた方々に対してもう少し真摯で謙虚な姿勢があっても良いのではないか?。たくさんの方々が命を落とされたわけですから。

 

 そもそも、今回の御嶽山の場合、噴火の前から火山性微動が頻発していたり硫化水素の臭いがきついといった兆候があったようです。それをもっと危機感を持って分析していたら、もっと早く入山規制するなど何か対策がとれたのではないか?「火山噴火予知連絡会」というのは、そういうことを専門的に分析し災害予防をするためにあるのでしょう?

 

 1986年の伊豆大島三原山噴火、1991年の雲仙普賢岳噴火、1955年の兵庫県南部地震、2004年新潟中越地震等を予知し的中させた琉球大学名誉教授の木村政昭氏によると、日本は、既にあの阪神淡路大震災から地震や火山の活動期に入っているそうです。あの東日本大地震や今回の御嶽山の噴火も、木村氏は「地震の目」「噴火の目」という独自の科学的アプローチによって数年前から予知し学会で発表ていました。でも、彼の主張は地震や火山の専門家のお偉い方々にはピンと来なかったのでしょうか(ちなみに、木村氏も立派な火山・地震学の専門家です。彼の著書は今ベストセラーになっています)?

 

 

 僕たちは、いつどうなるかわかりません。

 生きてると、何が起こるかわかりません。

 

 ならば、一日を一生と思って生きる。

 

 明日のことは誰にもわからないから、人生が今日一日しかないと思って一日々々を大事に生きる・・・。

 最近そう思うようになりました。

 

 そうすれば、今までがんばって生きて来た自分、今がんばって生きている自分が、少しでもホッとしてくれるような気がします。

 

 伝えたいことは今のうちに伝えておく。したいことはためらわずにしておく。特に、今しかできないことは。

 

 

 命に限りがあるからこそ、毎日を大事に生きようと思います。

 

 

 

 

冬になるのは嫌だ                 2014/10/23

 

 

 

 

 

 

  

 

小さい頃の夢は3つありました。

 

1つはお医者さんになること。

2つ目はパイロットになること。

3つ目は学校の先生になること。

 

 

今でも、もし医師になっていなかったら?と考えることがあります。

 

 パイロットって、かっこいいですよね。

 高所恐怖症の僕がこんな夢を持つのは矛盾しているかもしれないけど、僕は単純ですから、純粋にあの姿に憧れるのです。徽章のついた帽子を深々と被り、制服を着て黒いスーツで大きなアタッシュケースを持って颯爽と歩く姿はかっこいいなあ。今でも、空港で見かけると思わず目で追ってしまいます。あの世界で一番大きくて一番美しい飛行機を操ることもうらやましい。

 昔、キムタクが主演の『Good Luck!』というパイロットのドラマをやってました。あれは大好きで何度も見返しました。コクピットのやり取りやエンジン音だけを収録したCDも持ってます。そんなのを聴いてると、自分がパイロットになったような気分になります。

 飛行機が自動操縦になった時、機長から乗客に挨拶がありますよね。あれなんか、実にかっこいいと思ってしまいます。もし、あずさ(JR中央本線)の運転士が挨拶したら・・・かえって不安になるし、あまりかっこいいとは思わないかな。あずさの運転士さん、ごめんなさい(汗)。

 

 学校の先生にもなりたかったな。

 僕が学生の頃は学校の先生は尊敬されていたし、様々なことを教えてもらったから。勉強のことだけではなく人生のこととか。むしろ、勉強以外のことで大切なことをたくさん学んだような気がします。

 

 そういえば、これを書きながら小学校の1・2年生の時担任だったM先生のことを思い出しました。

 M先生は50代くらいの男性の先生でした。ものすごく怖い先生で、生徒達からは「鬼のM」と呼ばれていました。とにかく、悪いことをしたり約束を守らなかったりすると殴るのです。

 毎日授業が始まる前に忘れ物がないか検査をされます。宿題や持ち物など。1つでも忘れた日には・・・「忘れ物をした奴は出て来なさい」と言われ(言う時はとても静かな口調です)、教壇の所に並ばされます。そして、「目をつぶれ!」と言われ、順番に一発ずつ殴られるのです。女生徒も同じです。そういう点で差別はありません。

 あれは痛かったな(涙)。マジで痛くて怖かった。僕はいつもギリギリまで寝ていてほとんど朝食もとらずに走って教室に駆け込んでいたから(走るのは速かったです)、しょっちゅう忘れ物をしていました。ですから、殴られるのも常連でした。たぶん、クラスの中で一番たくさん殴られたんじゃないかなあ。

 ある時、案の定、並んで殴られるのを待っていたのですが、僕のすぐ隣の僕より10cmくらいでかいK君(その頃僕は2番目に身長が高かった)が殴られて、そのまま吹っ飛んで教壇の角に顔をぶつけて鼻から大量の血を流したのを見て、次は俺の番かと思った時、マジで失神しそうになりました。逃げ出したくなりました。逆に失神してた方がラクだったかも。だって打ち所が悪かったら死ぬかもしれないもん。忘れ物しただけで人生が終わるのは寂しいですから。その時は、何とか吹っ飛ばないように、四股を踏むような姿勢をとってがんばりましたが。

 

 今なら、完全にDVで父兄からじゃんじゃんクレームが来てるでしょうね。

 でも、あの頃は学校の先生は尊敬されていたので、厳しく叱ってもらえることに対して、むしろ父兄は感謝していました。

 厳しく叱るということは、先生が生徒の成長を願ってすることだという了解があったからです。良い時代でした。

 

 今は、社会全体がやたら神経質になりすぎているので、何でもかんでもクレームをつける人が増えていて先生達はかわいそうです。

 その子のためを思って叱っても、クレームが来るから叱るに叱れません。親も子供を躾けないから、必然的に叱られないでそのまま大人になる。たいてい、そういう人は対人関係で揉まれた経験に乏しい(衝突を避けようとするから)。

 そうすると、社会に出てからも相手との距離の取り方がわからず、対人恐怖的になりやすい。周囲とうまくいかなくなるし、叱られ慣れていなくてストレスに対する抵抗力も弱いから傷つきやすく、被害的傾向が強い。そうなると、自分が傷ついた時に、相手のせいにしたり社会のせいにしたり自分を取り巻く環境のせいにしたりして、クレームをつけたり、「うつ」になったり(いわゆる「新型うつ病」「非定型うつ病」[マスコミがつけた病名])、極端な例ではモンスターペアレンツ、モンスターペイシャントになっていきます。本当は自分に問題があることに気づかずに。

 

 M先生は普段はとても優しい先生でした。

 がんばった時にはきちんと誉めてくれたし、つらい時はじっくり話を聴いて慰め、励ましてくれました。

 

 でも、間違ったことに対してはとても厳しい先生でした。

 忘れ物、約束を守らないこと、暴言、相手の人格を傷つけること、目上を敬わないこと、弱いものをいじめること・・・。そういうことに対しては絶対に許さない人でした。

 

 先生が怒る時は、自分たち生徒の成長を願って叱って下さっているというのがわかっていたから、生徒も親も納得していたのだと思います。

 今でも、M先生には感謝しています。

 

 来世、もしまた人間をやらせてもらえたら、教師になって生徒と思いっきりぶつかってみたいな。人生論なんか闘わせて。

 もし教師になったら、間違いなく武田鉄矢みたいな「熱血先生」になると思います。

 

 

 

今日は午後から仕事だ・・            2014/10/23

 

 

 

 

  

あまのじゃく

 

俺はあまのじゃく。

それも、結構、筋金入りだと思っている。

 

人が白と言ったら黒と言うし、右を向いたら左を向く。

 親父は口数が少ない人だったが、『人と違った生き方をしろ。同じじゃつまらない』とよく言われた。

 どうも、そこがこの危なっかしい自分のルーツらしい。

 

でも、この性格、まんざらでもないと思ってる。

 常識は大っ嫌い。権力も巨人もトヨタもベンツも大っ嫌い(巨人ファンの方、トヨタやベンツに乗ってる方、スミマセン)。人がミニバンに乗るなら、SUVに乗る。長いものに巻かれるなんてまっぴらごめん。とにかく、大方が指向することは好きではない。群れるのも苦手だし、嫌だ。

 クリニックを開業した時、厚生労働省の役人と何度かけんかした。地元の医師会も脱会した。筋が通らないことがあったからだ。

 よく、見かけとは全然違うと言われる。

 

 

 だから、痛い目に遭ったり寂しい思いをしたりすることは多い。けっこう孤独。必然的に助けてくれる人は少ないから、自分で何とかしなくちゃいけない。それで、困ることが今まで何度もあった。

 ダチには、「戸田は、いつも、どうしてわざわざ難しい道を行こうとするんだ?」とよく言われた。

 

 でも、これが自分の生き方なんだからしょうがない。こういう生き方しかできないのだから。

 

 小さい頃から、我慢したりじっと耐えたりすることはそんなに苦ではなかった。むしろ、逆境に立たされた時の苦しくてつらい感覚は、それはそれで好きだった。一生懸命生きてるって思えて。マゾ?? 変な子供だった。常に親の顔色を伺って毎日を送っていたことも関係があるかもしれない。今さらどうしようもないが。

 

 だから・・・、芸大時代は楽しかった。3浪してから拾ってくれた大学。生まれて初めて、心底から開放感を味わった。

 級友は皆、「人と同じじゃダサい」と思って生きている連中ばかり。着てる服も個性的で面白かった。既製品(特にブランド物)を着てることは恥ずかしいような雰囲気があった。デザイン科のやつらは、自分でデザインしたファッションを身にまとっていた。ヨレヨレの汚いズボンのポケットから手ぬぐいを垂らして歩いてるひげ面のやつらは彫刻科。中には、大正時代からそのまま抜け出て来たんじゃないか?と思うような、円眼鏡にハンチング帽、ステッキという出で立ちの建築科の学生もいた。片や、お嬢様的雰囲気を醸し出してるのは音楽学部。それぞれ全く雰囲気は違ったけど、個性と個性が主張し合いぶつかりあってる。それが芸大だった。

 そこには、「常識」とか「ルール」といったような堅苦しいものは何もなかった。むしろ、「人と違う」個性を主張することがカッコイイ!とされた。だから、文字通り、ナンデモアリ!だった。

 そのかわり、芸大生は奇人変人とみなされ、合コンのお誘いは絶対に来なかったが。

 

 それから医学部に入ったが、どこか違和感があった。再入学だったから現役の連中と年が離れていたということもあるが、皆が同じ方向に向いている雰囲気がすごく息苦しかった。医者になりたいと思う人が医学部に行くのだから仕方がないのだけど、皆が、まずは医師国家試験に受かるために必死になって勉強しながら毎日を送っている環境が、自分にはどうもなじめなかった。自分だけ浮いている気がした。

 

 

 医師になった今でも、医者っぽくない医者をやりたいと思っている。白衣を着ない、クリニックをクリニックっぽくしないのも、あまのじゃくな性格によるところが大きい。

 

 

 むしろ、精神科医という仕事は、あまのじゃくがちょうどいいと思うことも多い。

 

 クリニックにいらっしゃる患者さんは、「常識」や「世間体」などのしがらみや考え方、価値観にがんじがらめになってにっちもさっちも行かなくなっておられる方が多い。特に、真面目で、『〜すべき』という標語を抱えながら生きている人にその傾向は強い。

 

 時には、非常識なものの見方、考え方・価値観は、山あり谷ありの人生を乗り越えて行くには必要なスキルだ。

 

 B型。あまのじゃくで、どうしても綱渡り的な生き方をしてしまう。一発勝負、非常識も大歓迎。だから、いつも崖っぷちで危なっかしい。劇画的で情熱的な生き方に憧れる一方で、退廃的だったりダダイズム的な側面がある。筋が通っていないことにはすごく反発する(たとえ間違ったことでも、筋が通っていれば許せる)。一匹狼的で(と言ったらかっこよすぎるかもしれないが)孤独。でも、まんざら嫌じゃない。いつも不安で強迫的で窮屈な毎日だが、だからこそ、自分を追い込むような在り方でしか生きられない。自分でも修行僧のようだと思う。その生き方が、自分と関わる人達にマイナスになるなら、申し訳ないと思う。でも、人が好き。特に、人の弱いところ、陰の部分・・・。それは人の本質であり魅力だと思う。それは、小さい頃から変わらない。

 

 

 以前、上野駅で芸大時代の級友に会った時、「芸大生は『芸大』という十字架を背負ってるね」と言われたことがある。

 その十字架を降ろすわけにはいかない。一生。

 

 

    俺にとっては、それは「医者っぽくない医者」をやっていくことだと思う。

  

 「普通の精神科医」ではなく、「あまのじゃくな精神科医」でいることだと思う。

 

 

 

 

 

天気はあまのじゃくじゃない方がいいなあ      2014/10/26

 

 

 

 

 

おぎゃあ*1

 

赤ちゃんが生まれる時、よく「おぎゃあ」と泣いて生まれると言います。

 

医師は、その産声を聞いて「息をしてるから大丈夫だ」と判断します。

 まあ、泣くためには息をしなければ泣けませんからそうなのでしょう。じゃあ、そもそも赤ちゃんは、なぜ「おぎゃあ」と泣くのでしょうか?

 

 まだ医師になりたての頃、ある産婦人科を専攻した同僚と飲んだ時に「なんで赤ん坊は『おぎゃあ』と泣くんだい?」と聴いたことがあります。

 彼は、「戸田、そんな当たり前のこともわからないのか?呼吸するから泣くに決まってるじゃないか」と笑われました。

 

 僕はいまだにその答えに疑問を持っています。

 彼の言い分は、「呼吸=泣く」ということです。でも、呼吸することと泣くことは本来全く異なる営みのはずです。僕たちは、泣きたくない時でも自然に呼吸はしているわけですから。つまり、泣いても泣かなくても、生きて行くためには呼吸はするわけです。

 

 ・・・と考えると、その産婦人科医の答えは矛盾しています。

 

 僕が疑問に思ったのは、出産の時に刺激によって呼吸が始まるのですが、その後なぜ泣くのか?

 泣くのは、産婦人科医が言ったような呼吸をするためではないと思うのです。じゃあ、なぜなのか?

 

 僕は、不安だから、怖いからではないか?と思います。

 

 生まれた瞬間から不安や恐怖といった感情があるかどうかは議論の余地があるところですが、僕は、きっと脳神経系が胎内で形成された以降は、本能的にそのような「リスク(生命危機)」に対する負の感情・・・というより「感覚」や心地よい正の「感覚」を感じているのではないか?と考えています。

 よく、胎教がいいなんていって妊娠中からクラッシックを聴かせるようなことがありますよね。あれは、聴いているお母さんの精神状態がリラックスすると同時に、お腹の中の赤ちゃんにも心地よさが伝わっているからではないでしょうか?

 

 人間は、母親の胎内から始まり、老衰や病気、事故などでその一生を終わります。

 その一生の中で最も安心していられる時期・・それは、母親の胎内にいる時ではないかと思います。この時期はまさに、母親と一心同体。これほど守られている環境はありません。そこには、不安も恐怖もないのではないのではないでしょうか?

 

 ところが、いよいよ運命の出産の日。胎児は産道を通って外界へ出ます。

 

 陣痛によって、穏やかで安らげた胎内から、経験もしたことがないような世界に無理やり出される(きっと、胎児が出たいと思って出てくるのではないでしょう)。

 これは、本能的に、とても不安で怖い体験ではないか?寒いし、経験したことのないような人の声や手の感触、くるまれる繊維の違和感・・・

 その五感で感じる全てが、赤ちゃんにとっては違和感があるのではないか?

 

 だから、泣くのではないか?

 「なんだこれ?なんか変だ。今までと違う。何が起こってるの?怖いよう・・・」

 

 そういった本能的な負の(危機的)「感覚」(まだ情緒が発達していないので「感情」とは表現しません)が、「おぎゃあ」という産声に現れているのではないか?

僕はそう思います。

 

 だって、呼吸をするためなら、別に泣かなくても黙って息をしていればいいわけですから。

 

 

 人間は、母親から離れた瞬間から不安と共に生きる一生が始まります。

 

 そして、この不安は、誰も守ってくれないから自分の力で生きていかなければならないという不安です。もう、自分を守ってくれた母親の胎内に戻ることはできない。

 

 だから、不安は消すことはできない。不安から逃れることはできない。

 

 むしろ、このやっかいなものと上手くつきあっていくトレーニングとそこから得た技術、覚悟が必要なのではないでしょうか?

 

 

 

 

 

あのあざみの帽子は大雪対策?              2014/11/16

 

 

 

 

おぎゃあ*2

 

先程も述べたように、人間は、母親から離れた瞬間から不安・恐怖・苦しみと共に生きることになります。

 

 人生の一番最初に一番心地よい世界にいてその満たされ感を味わってしまっているというのは皮肉なものですね。

 だって、その後の人生では、どんなに逆立ちしたって、その満たされ感を提供してくれた環境に戻ることはできないのですから。

 

 そこで大事になってくるのが、出産後に出会う「他人」の存在です。

 

 一般的には、赤ちゃんが最初に出会う「他人」は母親と父親です。

 ただ、何らかの事情で両親がそばにいない場合は、祖父母だったり親戚だったり乳母だったりするでしょう。

 

 いずれにしても、生まれた後に出会ったこの人達の存在=赤ちゃんへの関わり方がとても重要になってきます。その関わり方が、その子の一生を左右することもあります。

 子供への暖かい関わり方をアタッチメント(愛着)といいますが、人生の最初の5年間のアタッチメントがその子の人格形成に非常に重要であることは文部科学省の研究班も指摘しています。

 

 それは、当然ですよね。

 

 だって、お母さんのお腹の中で10ヶ月、最高に満たされた時を過ごして来たのに自分の意思に反して外に出されちゃったわけですから。

 その後のフォローがとても大事になってくるわけです。

 

 だから、一般的には、「感覚」として覚えていてなじみのある母親の関わり方がとても重要になります。

 一心同体にはなれないけれども、それに近い密接な関わり(アタッチメント)が特に幼児期には不可欠になります。

 

 お母さんからすると、自分の子供が胎内にいる時は何もしなくても自然に守っているわけですが、いったん「自分の体から離れた」子供に対しては、何らかの積極的な関わりをしなければなりません。

 おっぱいをあげたり、おむつを交換したり、だっっこしたり、語りかけたり・・・

 そういう、母親としての当たり前の関わりの中で、子供は、胎内にいた時のような恒常的な満たされ感は持てないにしてもその時々で満たされ、やがては、「たとえお母さんが自分から離れていても、必ずまた来てくれる。いつも、見捨てないでいてくれる」という感覚を身につけ、お母さんがいなくても我慢したり、自分の世界を見つけて一人でも遊んでいられるようになります。

 

 それは、お母さんから無条件の絶対的保障が充分に与えられたために、「自分はここにいていいんだ。自分は今の自分でいいんだ。だって、いつもお母さんが受け入れてくれているから」という自己肯定感が身につくからです。

 

 自己肯定感がしっかりしている人は、自分に対しても他人に対しても信頼できるので、壁にぶつかった時でも自分を責めすぎたりせず、他人にうまく甘えながら乗り越えていくことができます。

 


 ところが、もし育児の段階で「アタッチメント」が充分になされなかったら・・・

 子供は「満たされ感」がないために慢性的な欲求不満状態になり、「満たして感」を抱くために自分の感情を抑えて母親の顔色を伺うようになり、更には、見捨てられ感、空虚感、絶望感といった負の感情を持つことが癖のようになっていきます。

 このような家庭環境で育った子には、お母さんからの「無条件の絶対的保障」が欠如しているため、自分に自信がなかったり、感情が極めて不安定だったり、他人を信用できなかったり、今の自分で良いと思えなかったり(自己肯定感の低さ)、自我の脆弱性といった傾向を宿してしまいます。

 

 

 ただ、このように書くと、いかにもお母さんの在り方次第でその子のすべてが決まってしまうような印象を持たれてしまいそうですが、そんなことはありません。多かれ少なかれ、誰でも幼少期にはトラウマを抱えているものです。でも、そのようなトラウマだけでその後の人生が決まってしまうわけではないことは誰でも理解できるでしょう。

 

 たとえ幼児期から幼少期に「無条件の絶対的な保障」が与えられなかったとしても、その後の様々な人との関わりに中でそれに代わる保障(受容気入れ=受容)が与えられれば、そのトラウマも少しずつ癒されていくのです。

 

 

 

 でも、こうやって考えてくると、改めて、人間は極めて弱い生き物なんだなあと思います。

 自分を受け入れ認めてくれる存在がないと、不安になるし孤独だし、自分も他人も認められなくて苦しくて仕方ないわけですから。

 

 僕たちは、一生、自分を無条件に受け入れてくれる存在(自分の居場所)を探し続けているわけです。

 

 ある作家が、こんな言葉を言い残しています。

 「人は、親が死んで初めて大人になる」

 

 

 生きるということは、はっきりとした記憶としては残っていないけれども、『確実な感覚』として記憶されているあの胎内という穏やかな安心できる世界への、絶え間ない希求の営みのような気がしてなりません。

 

 だから、僕は、人の不安、恐怖、孤独、妬みといった負の感情が愛おしいのです。

 

 そこに、人間の本質を感じるからです。

 

 

 

 

 

Mahler Symphonie No.5: Adagietto

こころに沁みます                    2014/11/16

 

 

 

 

 

 

先を考えない

 

社会は不安に満ちています。

 

特に、今年は様々な災害、事件が多い年でした。

明日から12月ですが、今年程多くの災害に見舞われた年もなかったのではないでしょうか?

 

 2月の大雪、広島の土石流、竜巻や巨大台風、御嶽山噴火、長野県北部地震etc...

 高校生が同級生をバラバラにした事件、減らない自殺、脱法ハーブによる人身事故、幼女誘拐、連続放火、過去最高の被害額の振り込め詐欺etc...

 

 そして、何を思ったのか、この大変な時期、かつ、あり得ないタイミングでの衆議院解散。

 

 僕たちを取り巻く自然環境も社会も、どこかおかしい・・・そう感じているのは僕だけではないと思います。

 自然も社会も病んで来ているのかもしれません。

  

   だいたい、僕たち国民を守ってくれるはずの政治家たちが、自分たちの私利私欲のことしか考えてませんから。今回の解散総選挙もそれを象徴する出来事です。国をあずかるトップの人達がこんな情け無い有様ですから、国民は安心できません。


だから、社会全体が漠然とした不安に包まれています。 


今の時代は将来への希望が持てない・・・それが現代社会。

むしろ、そう考えた方が良いのかもしれません。

 

もちろん「夢」は大事です。

 でも、一方では「夢」は実現しない場合もあるし、先述のように将来は必ずしも明るいとは言えない。

 だから、「夢」を持つことと冷静に現実を見通すことのバランスが大事だと思います。

 

ならば、いっそのこと、将来を考えないようにしたらどうか?先を見ないようにしたら良いのではないか?

 

そもそも、将来なんてどうなるかわからない。1週間先だって自分がどうなってるかわからない。

 

ならば・・

 

あまり先のことは考えないで、今どうするかを考える。

今この瞬間に何ができるかを模索する。

そして、今日一日を大事に生きる。

明日はないかもしれないと思って。

 

これからの時代は、このような考え方も大事になっていくのではないか?

と思います。

 

 

            『一日一生』

            『一期一会』

 

人とはガチンコ勝負で、ごまかさずに正直な自分で関わろう

伝えたいことは、今伝えておこう

やりたいことは、今やっておこう

 

それは全て、毎日を大事に生きること

 

最近、そう思って生きています。

 

 

 

 

今年も大雪の予報・・憂鬱                2014/11/30

 

 

 

 

 

 

 

なぜなんだ???

 

どうして?なぜ??

 

テレビは、与党自公民の圧勝と選挙の投票率が戦後最低と報道している。

 

なぜ、国民は選挙に行かないの??

この国は、今、相当やばい方向に進もうとしているのに!

 

 憲法9条改正、集団自衛権、一向に進まない東北復興、原発問題、ますます乏しくなる年金や社会福祉政策、相変わらず変わらない政治と金の問題〜大臣クラスの汚職問題、未だに売り手市場の厳しい雇用情勢、中国など周辺諸国との問題 etc...

 

 麻生さんは「今日の選挙の大勝は、国民がアベノミクスを評価してくれたということだ」と言ってるそうだが、冗談じゃない!!

 先日発表されたGDPの悪化や日銀短観が物語っているように、日本の景気は決して良くはなっていない。

 確かに日本の株式市場は活況を呈しており、この数カ月で急速に株価が上昇した。しかし、これは、未曾有の円安と「アベノミクスで景気が良くなるかもしれない」という根拠のない期待に沿った極めて不確実なものと思っている。一部の輸出企業は今回の円安でリーマンショック以前の水準まで利益を上げているようだが、この国を支えその大半を占める中小企業は、依然、厳しい状況が続いている。諏訪地区には日本を代表する精密機械企業が集まっているが、ボーナスどころじゃないという声も多く聞く。

 実際、4月に消費税が上がってからも国民の収入は増えておらず、相変わらず財布の紐は固い。

 アメリカも、日本を始めとするアジアやヨーロッパの景気回復が遅れていることが自国の回復の足を引っ張っていると考え、今回の解散総選挙に懸念を示していた。

 

 そもそも、今回の総選挙ほどくだらない選挙はない。

 

 安倍さんは「国民にアベノミクスの成果の信を問うために解散する」とのたもうて今回の選挙に踏み切った。

 でも、俺からすれば、立て続けに続いた大臣の汚職やアベノミクスがうまくいってないことに対して大義名分を立てるために行った、極めて自分勝手な選挙としか思えない。しかも、乱立しすぎてバラバラでまとまらない野党には与党に勝つ力はないと踏んだ上での計算づくの決断だろう。

 今回の選挙で大勝すれば、日本は間違いなく改憲の方向に進んで行くだろうし、国会議員を含めた政治とカネの問題もうやむやにされるだろう。

 

 そうこう言っているうちに、あの使途不明金疑惑で辞職した小渕氏がなぜか!?当選したようだ。はあ・・・

 

 安倍さんをはじめ国会議員は、よく「国民のため、国民のため・・・」という言葉を使うが、俺には白々しく聞こえる。

 

 

 今回は、そういった大変な状況下での選挙なのに、どうして投票に行かない人がこんないたくさんいるのだろう??

 

 「どうせ行ったって変わらないから」という声が聞こえてきそうだ。

 

 確かに俺にもその気持ちはわかる。しかし、行って投票しなければ絶対に変わらないじゃないか!?

 宝くじだってそうだろ?「どうせ買ったって当たらないから」と言って買わない奴には幸運は絶対にやってこない。でも、もし買った奴には当たる可能性がある。

 

 今の政治家たちは、そういう冷めた国民感情をよく知っていて自分勝手なことをやっているようにさえ見える。もしそうなら、俺たち国民が馬鹿にされ、ないがしろにされているということだ。

 

 悔しくないか?

 

 本当は、「どうせ行ったって」と考えている人たちにこそ、この国を変える力(一票)を持っているのに。

 

 

 今の日本は、あの幕末のペリーが来航した時に似てると思う。

 

 外からは中国という'黒船'がやってきて、隙あらば、日本の既得権益を奪おうと虎視眈々と狙っている。

 でも、日本国内は、昨今の自然災害や原発問題に加え、乏しい安全・危機管理、改善しない経済問題、増え続ける国債(国の借金)、貧弱な社会福祉政策、格差社会、少子高齢化、子供だけではなく大人の世界で平然と行われている陰湿化したいじめ、平気で人を殺す子供達、不安耐性が脆弱で自己中心的な若者たちの増加、減らない自殺、それが象徴する孤独な社会 etc・・といった問題が山積しているが、国民はしらけて危機意識が薄く、希望も持てず、頑張ってもしょうがないように思われる風潮さえある。あの、香港のデモを先導した学生たちの様子は、この国の国民には奇異に映ったかもしれない。

 

 それくらい、今の日本人には気概も希望もない。

 

 本当は、俺たちの国もやばいのに。

 

 今の日本人には危機意識が欠けている。

 

 こんな状況では、この国の「不安」はこれからもますます増大していくだろう。心の病は増えるだろう。自殺者も減らないだろう。

 

 

 俺たち国民が危機意識を持って政治家たちに物申さなければ、この国は変わらないし俺たちの「不安」は軽くならない。その唯一の手段が選挙で投票することなのに・・・。

 

 それにも関心がないようでは、俺たちが自分で自分の首を絞めていると言われても言い訳はできないだろう。

 

 今の日本こそ、他の国から奇異に思われているのではないか?

 

 

 今日のニュースで、東北の仮設住宅に住んでいらっしゃった50代の女性の方が自殺されたと報道されていた。

 すごく、切なくて悲しくなった。

 

 あの震災からもう3年も経っているのに、どうして未だに仮設住宅に住まわされなければならないのか!?

 

 安倍さんをはじめ、国は今まで一体何をやってきたのか?

 アベノミクスという前に、やるべきことが他にあるんじゃないか?

 

 優先順位を間違えていないか?

 

 いったい、この国はどうなっているのか!

 

 

 誰も疑問を持たないのか?

 

 

 

 

 

 俺は、このブログでは、今まで政治の話題は書かないようにしてきた。それは、弱小ながらも一診療所を経営している者がそのような話題に触れることで、患者さんに何らかの迷惑があってはいけないと思ってきたからだ。

 

 でも、今回は黙っていられなかった。

 

 

 

 

 今日はふたご座流星群のピーク。

 

 夜空ではロマンチックな天体ショーが営まれているというのに、下界ではそんな気分も打ち消してしまうような暗澹たる光景が広がっている。

 

 寂しい夜だ

 冷たい夜だ

 

 

 

 

 

でも、なぜ星は美しい?              2014/12/14

 





 

  

また一年が過ぎようと・・・

 

あと数時間で2014年も過ぎようとしています。

 

今年ほど変化に富んだ年はなかったのではないか・・・

そう思います。

 

 季節らしい季節がなかったような気がするし、何よりも、日本国内だけではなく、世界的規模で多くの災害がありました。

 

 地球全体がバランスを崩しているのではないか?と強く感じざるを得ない年だったように思います。これも、人間の傲慢さが生んだツケなのでしょうか?

 

 今日の天気予報でも、明日からの正月三が日は強烈な寒波(日本海側では10年に1度)が来るそうです。

 

 今年は、大雪で始まりました。僕は、あの2月の大雪から体調を崩し、それからずっと、この一年は心身ともに元気がなかったように思います(でも、診療に影響があるレベルではないので心配しないでくださいね)。

 体調としては、今年は最悪の年でした。

 

 でも、今日までなんとか一年を終えることができたのも、患者さんやスタッフをはじめ様々な方々の励ましと支えがあるからです。

 

 本当に、ありがとうございます。

 

 

 来年はどんな年になるのでしょうか?

 

 明るいニュースがどんどん出てくるような年になってほしい。

 

 

 今年も、本当にお世話になりました。

 ありがとうございました。

 

 来年も、よろしくお願い致します。


 

 

 

(P.S)寒い夜は、井上陽水の「ワインレッドの心」が沁みます。

   これって、久しぶりに聴いたけどボサノバ風なんだね。

 

 

 

 

寒いのは寂しい                     2014/12/31

 

 

 

 

 


あけましておめでとうございます

 

新しい年が始まりました。

今年も、よろしくお願い致します。

 

クリニックも6年目に入っています。

でも、6年間という年月に見合うようなクリニックになっているのか?

 

今の自分の診療を冷静に見つめ、改善するべきところは改善しながら、改めて、患者さんに信頼され安心してもらえるようなクリニックにしていきたいと強く思っています。

 

これからの1年が、皆さんにとって実り多き年になりますように!

 

 

 

富士山がきれいです                     2015/1/1






 

 

 

 

 

申し訳ありませんでした

 

今年の仕事始めの1月5日、高熱で出勤できず、患者さんには大変ご迷惑をおかけしました。

 

 本当に、申し訳ありませんでした。

 

 前日1月4日の朝、朝食をとった後、妙に寒いなと感じました。前日までは何ともなかったので、その時は「外が冷えているせいだろう」と気に留めませんでした。でも、だんだん頭痛、筋肉痛、全身倦怠感が出始めたので疲れのせいかな?と思い、昼寝をすれば治るだろうと横になりました。ところが、夕方目を覚ましても良くなるどころかもっと状態が悪くなっていたので、体温を測ったら38.1℃。喉の痛みや鼻水といった風邪の症状は全くなかったので、インフルエンザではないか?と考え、すぐに近くの病院の救急外来にかかりました。外来に着いた時は、体温はさらに上がっていました。

 ところが、結果は陰性。でも、発熱からあまり時間が経っていないことや症状の内容から、救急のドクターもインフルエンザの可能性が高いと判断し、薬をもらって帰ってきました。

 

 悩みました。

 

 インフルエンザの疑いが濃厚なら、患者さんに感染させてはいけないので明日から出勤するわけにはいかない。でも、休み明けの初日はものすごくたくさんの予約が入ってる。中には年末年始の休み中に状態が悪くなっている患者さんもいらっしゃるだろう。だから休むわけにはいかない・・・

 

 いろいろな考えが頭を巡りました。

 

 ずいぶん長い間考え、結局、患者さんに感染させる可能性があるならば出勤してはいけないと判断し、翌日に再検査をして診断を確定しその後のことを決めるということで、断腸の思いで休むことを決断しました。

 

 1月5日は、もう一度再検査のため病院に行きました。

 クリニックは、スタッフやその日のために駆けつけてくれた助っ人に頑張ってもらい(スタッフや助っ人の皆さん、本当にありがとう!)、連絡できる患者さんにはあらかじめ電話を入れ、来院された患者さんにはお薬を処方し、調子の悪い方はできるだけ近い日に再診予約を入れる形をとりました。

 

 結局、再検査の結果も陰性。熱も37℃台まで解熱してきていたので、ドクターと話し合い、仕事しても良いだろうということになり、6日からは(マスクをしながらですが)出勤しました。

 

 今まで、医師になってから病気で仕事を休んだことは一度もなかったしある意味それを誇りにしていたので、今回の決断は自分にとってとても辛いものでした。悔しかった。

 何より、僕が休んだことによって患者さんに大変なご迷惑をおかけしたことが本当に辛く申し訳なかった。

 

 と同時に、クリニックには医師は僕一人しかいないこと・・・だから、日頃からきちんと自分の体調を管理することがすごく大切なんだということを改めて感じました。

 

 スタッフに様子を聞いたら、「不満を述べる患者さんは一人もいなくて、皆さんが『先生にお大事にと伝えてください』とおっしゃっていた」とのこと。

 患者さんの寛容さと優しさに頭が下がる思いです。

 本当にありがとうございます。

 

 

 今後は、今まで以上に体調管理をきちんとしてこのようなことが二度とないようにしたいと思います。

 

 

 

 改めて、今回休ませていただいたことで、たくさんの患者さんにご迷惑をおかけしたことを深くお詫び申し上げます。

 

 

 そして、様々な方々に支えていただいていることを感謝いたします。

 

 

            

 

             本当にありがとう

 

 

 

 

 

また雪が降ってきました                   2015/1/11

 

 

 




 

 

 

今思うこと

 

今日から始めようと思うこと

 

 

今日一日を大切に生き、できるだけ楽しむこと

 

冗談を一日一つ言うこと

 

階段の踏み台昇降をやること(最初は2日に1回)

 

サンバ・ボサノバを聴くこと

 

クラッシックも聴くこと

 

落書きでもいいから絵を描くこと

 

英語の会話表現を一つ覚えること

 

わけがわからない哲学書を、それでも毎日読むこと

 

マンガも毎日読むこと

 

祈ること(朝と寝る前)

 

 

                  ・・・・ちょっと欲張りすぎたかな

 

 

 

 

 

 

自分にとって何のメリットもないこと   それは

 

 

かこをくよくよする こと

 

しょうらいをしんぱいする こと

 

たにんのせいにする こと

 

じぶんのせいにする こと

 

ひととくらべる こと

 

 

これらはすべて まいなすなきもちをうむだけ おちこむだけ

 

ただ じぶんがみじめになるだけ

 

なんのいみもない なんのめりっともない

 

 

 

だいじなのは 

 

いままでなにをしてきたか とか これからなにをしていくか ではない

 

がっこうにいってる とか がっこうにいっていないとか  ではない

 

しごとをしてるか とか しごとをしていないとか      ではない

 

どこのだいがくにうかった とか どこのかいしゃにつとめているか  

 

                             ではない

 

 

だいじなのは

 

 



             いま どうあるか       

 

 

 

 

それがだいじ

 

 


 

 

 

 

 大雪がないからうれしい                 2015/2/15

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

狐と月の小さな物語                  

 

 

 

「なんて きれいなお月さまだろう・・・」

 

  狐はこころからそう思いました

 

 その視線の先には

 一寸の隙もない真円の月が 柔らかい光を下界に注いでいます

 

 その光は森全体を包み込んで 木々は真っ黒なシルエットになり

   絶妙なコントラストを醸し出しています

 

 狐は月を見るのが好きでした

 今いるお気に入りの岩山のてっぺんで

 

 そこは 狐だけがようやく座れる岩のくぼみ   

   狭いけど ふさふさのシッポも

 しょっぽりおさまるので気に入っているのです

 

 

 狐以外は 誰もその場所を知りません

   まさに 狐にとって お月様を眺めるには特等席でした

 

 しかも   そこからは森全体を一望に眺めることができました      

   それはそれは見事な眺めでした

 

 

 でも 狐はその素晴らしい眺めを観るために毎晩訪れるのではありません

   狐にとって その雄大な森の景色はどうでもよかったのです

 

 狐にとって大事なのは お月さまに会うこと

 その特等席に行けば お月さまに会えること

 

 そこに行けば

   お月様は形を変えこそすれ いつも狐を優しい光で包み込んでくれました

 

 たとえ 曇りや雨の日でも

 その厚い雲の上で、お月さまはその柔らかい光を放ってくれている  

   そのことを 狐はわかっていたのです

 

 ですから 狐はお日様が森の果てに沈むと毎日欠かさずその岩場に行き

   お月様を見つめ そのうちに安心して眠りにつくのでした

 

 

 

 狐には友達がいません

 

 いえ

 

 狐の方から友達を作らないでいると言った方が当たってるかもしれません

 

 だって 森の中ではたくさんの動物たちが傷つけ合っていて

   狐はそんな光景をいやというほど見てきたからです

    

   その嫌いな森は今 狐の眼下に広がっています

   こんな風に森を見下ろすことは

   狐にとっては それもちょっとした優越感なのです


 そのようなわけで 狐は一人でいる方が気が楽なのです

 

 

 だからといって 狐は寂しくありません

 なぜなら お月様がいるからです

 

 お月様の柔らかな光に包まれていると

   狐にも思い出せない頃の

 ぼんやりとした暖かい記憶がよみがえってくるのです

 

 それは いつの記憶かわかりません

 でも とても静かで安らかな記憶です

 

 

 意地悪なお日様が残したうだるような空気が残る熱帯夜でも

 激しい風雨が吹きすさぶ夜でも

 しんしんと雪が降り積もる厳冬の夜でも

 お月さまは いつも同じように どこかで

 その柔らかくて優しい光で包み込んでいてくれる

 

 だから 狐はちっとも寂しくないし怖くないのです

 

      

 

       

      『お月さま いつもいつも ありがとう』

 

 

 

 

 

 

    ある満月の夜

 

 いつもの岩場の様子が 少しばかり違っていました

 

 狐はお月様を見つめていませんでした

 シッポはいつものように岩のくぼみにしょっぽりと入れているのに

   横になってピクリとも動きません

 

 その訳を知っているのはお月様だけです

 

 

 

 ...  でも お月様はホッとしました

 

 どうしてかって?          だって

 

 その狐の表情は 微笑みを浮かべ 安らぎに満ちていたからです

 

 

 お月様は狐に声をかけました

 

 

       

    『だいじょうぶ もうすぐわたしのそばに来れるから』

 

 

 

 

                                       その夜も

 

   いつもと変わらず 森はお月様の優しく淡い光に包まれていました

 

 

 

 

                         

                        

                   

                                                                       

 

                         (Makoto original)

 

 

 

 

 

 

今朝 庭に狐の足跡がありました                  2015/3/8

 

 

 

 

おつかれさまでした


今日、信州大学医学部精神神経科学教室天野直二教授の退官セレモニーに出席してきました。


 多くの教室員、関係者が一同に会し、とても和やかなひとときでした。

 

   それは、ひとえに天野先生の気さくな人柄のおかげだと思いますが、参加した方々もまた、フレンドリーで暖かい雰囲気を持っていらっしゃったことも大きいと思います。そして、日頃遠ざかっていたアカデミズムの一端に少し触れられた時間でした。

 

    天野教授は、吉松和哉教授の後、僕が大学を離れた後に着任されたので直接指導していただいたことはありませんが、とても気さくなお人柄の先生です。あまり「大学教授」然としていないところが、誰からも好感が持てる先生です。

 

   学会などで、先生の方から「よお!戸田先生。元気?」とチョッピリニヒリズム的な笑顔を浮かべながら(笑)声をかけてくださったり、専門医の試験の時は、わざわざ名古屋の試験会場まで駆けつけてくれて皆を励ましてくれるような、優しさと行動力を持った先生です。

   直接、教育や仕事の面で関わって頂いたことはありませんでしたが、いつも、天野教授のことは僕の心のどこか片隅にいらっしゃいました。



 研修医時代に辛酸を舐めた仲間たちや御指導いただいた先輩方とも久しぶりに会うことができ、文字通り同窓会のような雰囲気でした。

 どれだけ年月が経っていても、会うとその時にタイムスリップしてしまうものですね。

 本当に有意義なひとときでした。


 

 天野先生、14年間、本当にお疲れさまでした。


 先生の、今後の、益々の御発展と御健康をお祈りしております。


 そして、先生や皆さんに負けないよう、僕もさらに精進していきたいと思います。






野焼きの匂いは春の訪れ                 2015/3/15








6歳の誕生日


今日で、クリニックが満6歳になりました。

6年前の開院日は晴天で暖かく、茅野駅前の桜が満開でした。
今年もその桜は満開なのですが、今日は朝からあいにくの天気で、冷たい雨の中、桜がかわいそうです。


今朝、たくさんの方々から開院記念のお祝いの言葉をいただきました。
本当にありがとうございます。

ここまで無事来れたのも、スタッフをはじめ、クリニックを支えてくださるたくさんの関係者の皆様、そして、何よりも、いつも僕達を励ましてくださる患者さん皆様のおかげです。
本当に、ありがとうございます。


僕自身、未熟です。まだまだ精進が足りないと思っています。

また、今のクリニックの在り方にも少なからず問題を感じています。
それは、初診の患者さんを随分長く待たせてしまい、早く診てさしあげられない状況が続いていることです。
これについてはもう何年も前からずっと悩んできたことですが、様々なアイデアが出ては消え出ては消えを繰り返して今に至っています。

できるだけ早く、ホットな状態で患者さんを診てさしあげるにはどうしたらいいんだろう?
最近は、毎日そのことばかり考えています。


今日からクリニックは7年目に入りました。

6年間の経験と反省を生かしながら、もっともっと患者さんに身近なクリニックでありたいと、スタッフ一同考えております。



これからも、どうぞよろしくお願いいたします。




満開の桜に非情な冷雨                                                     2015/4/13






長い長いトンネル

 

ようやく........  長い長いトンネルを抜けた気がします。

 

 妙に体がだるい、朝起きづらい、突然気分が落ち込む、意欲が出ない、好きなことを持続できない、マイナス思考、イライラしやすい(これらの症状が断続的に続く)etc・・・

 ここ数年続いていたこれらの症状が、最近になって、ゆっくりではあるけれど少しづつ軽くなってきた気がします。それこそ、氷が溶けるようにゆっくりと。

 

 でも、正直辛かった.....。

    原因ははっきりしませんが、おそらく更年期障害だったのではないか?と思っています。父親に聞いても、ちょうど同じ歳の頃そのようなことがあったそうです。私も医者の端くれですから自分を分析しました。症状はうつ病に似てるのですが、毎日ずっと続くわけではなくたまに具合が良い日もあるのです。ただ、調子が悪い日は半端じゃないくらいひどかった(涙)。精神科に受診すれば、おそらく、気分変調症(抑うつ神経症)という病名がついてもおかしくない状態でした。

 

 でも、今年の春は例年と違って、花や新緑の美しさに素直に感動することができるようになりました。

 

 それと、今までの反動でしょうか?異常なまでの知識欲が出てきて、毎日受験生のように(笑)机に向かって勉強を始めました。

 

 ここ数年元気がなかったからといって、幸い、診療に差し支えるということはありませんでした。むしろ、診察室にいる時は充実感を感じられていますし、むしろ自分が辛い状態であるからこそ、患者さんの辛さもより共感できたと思っています。また、患者さんが快復していかれる姿を見て、たくさんの喜びや達成感をもらいました。


    僕は、もともと明るくてひょうきんな性格です。

    これからも、もっともっと自分らしい自分に戻って、毎日を生きていきたいと思います。

 

 

 

 

 山桜が雪のように降りしきる                  2015/5/6

 

 

 

 

 

 

 

 

 

勉強ってこんなに面白いんだ!

 

先ほど勉強について書きました。

 

1ヶ月ほど前から、毎日勉強机に向かってます。今日も勉強しました。

何を勉強しているのかって?

 英語、国語、数学、日本史、地理、生物、地学etc......です。

 方法は、「東大の赤本(過去問集)」を解きながら、わからない箇所は参考書や資料で調べて知識を深めていくといったやり方です。

 

 なぜ東大の赤本なのか?

 みなさんも東大の過去問を見ていただければわかると思いますが、日本史を例にとると、東大の入試では、例えば『大化の改新が起こったのは何年か?』なんていうような安易な問題は出ません。ある一定の資料を読ませて、『8世紀から10世紀前半に、政府が動員する軍事力の構成や性格はどのように変化したか説明せよ』みたいな論述式の問題が出ます。

 つまり、ただ歴史事項と年代を覚えていたら点数が取れるようなものではなく、そういった知識をベースにして歴史の流れやその背景がわかっていないと答えられない問題が出題されるのです。僕が魅力を感じるのは、まさにそういった歴史に隠された人間のドラマを知ることなのです。「鎌倉幕府ができたのは<イイクニ>=1192年」なんてどうでもいいのです。歴史がこんな暗記だけの学問で終わってしまうとしたら、こんなにつまらないことはありません。

 

 歴史は人間の様々な欲が作り出したドラマです。その背景にはドロドロとした人間の欲が渦巻いており、その営みの産物が歴史なのです。そのドロドロを知ることが、歴史を学ぶ魅力です。人間が考えることやすることは、昔も今もそんなに変わらないのです。だから、歴史を学ぶことは、現代を生き抜く知恵を学ぶことだと思うのです。勉強したい!って思う原点はそこにあります。

 東大の他の受験科目も同じで、「考えさせる」問題が基本です。だから、学び甲斐があるのです。

 

 英語→原書を読んだり、話したり聴いたりできるようになりたい

 数学→人間の生活を豊かにしたルールや宇宙を支配してる原理を知りたい

 国語→優れた現代文に触れたい、古典を原書で読めるようになりたい

 日本史→日本人の祖先がどんな思いで人生を送ってきたのか知りたい

 地理→地球という自分の天体を、人間の営みの面から見つめてみたい

 地学→最近地震が多いので、足元で何が起こってるのか知りたい

 生物→人間を含めた地球の「生き物」の営みや原理を知りたい

                                ...etc


 高校生の頃までは、学校で習うことには全く興味がありませんでした。「そんなこと何の役に立つんだろう?」って思ってました。周りの大半の連中も、勉強は大学に受かるためにやるものと割り切ってやってるようでした。浪人して美大を受験した時も、「とりあえずどこかに受かるためのお勉強」でしたし、29歳で医学部を再受験した時も、職業として医師を選択したので、そのための第一段階として「医学部に入るための必要最低限のお勉強」をしただけで、学問を勉強し教養を身につけることの本当の魅力や面白さはわかりませんでした。勉強はゲームのようなもので、何でも暗記して似たような問題が出たら答えられるようにすればいいと思ってました。今から考えると、「お受験のための勉強」でした。

 

 でも今は違います。

    使ってるものは受験用のものですが、目的は全く違います。

 教養のための勉強〜自分の人間としての幅を広げるための勉強。

 

 今、僕の心の中には、次から次へと『新しいことを知りたい』欲求が出てきています。それがもう半端じゃないのです。すごく熱いです。こんな感覚は生まれて初めてなのです。

 おそらく、「人生いつ何が起こって『さよなら!』なんてことになるかわからないから、今のうちに一つでも多くのことを知りたい」という(焦りにも近い)気持ちが強いのだと思います。

 

 小さい頃から3日坊主で、一度だって計画通りに実行したことはなかったので、こんな自分に自分でも驚いています(笑)。

 

もしかしたら、来年東大を受験してるかもしれません(笑)。

    もし東大に入ったら、芸大の頃に中途半端に終わった「曽我蕭白」の研究を再開したいし、他の教養ももっともっと深めたいなあなんて妄想してます(笑)。

 

・・・でも、クリニックはどうしよう???・・・冗談です(笑)

      

 大丈夫です。クリニックはやめられませんから。患者さんにはご迷惑はかけません(笑)

 

 

 

 

知らないことを知る喜び                     2015/5/6

 

 

 

 

 

 

 

申し訳ありませんでした

 

 今日の午前中に来院された患者さん、大変申し訳ありませんでした。

 カルテのトラブルで手書き処方にせざるを得ず、大変長くお待たせしてしまいました。

 

 カルテの異変は、僕が出勤してクリニックの機器を立ち上げた時にすでに始まっていました。いつものように診察室と受付のパソコンが連携しないのです。連携しなければ診察室で記録したり処方したりした情報が受付に伝わらず、結果、カルテ情報による処方箋が出せなくなります。

 

 焦りました(汗)。

 診察時刻は刻一刻と迫ってるのに、再起動してもサーバ−をいじっても何をやっても状況は変わりませんでした。

 結局、お待ちになっている患者さんに状況を説明し理解していただき、いつもより遅れてスタート。カルテが使い物にならないため、全て手書きの処方箋を作成するしかありませんでした。

 原因がわからないまま、モヤモヤした状態で診察をするのはきつかったですが、何よりもイライラされたのは患者さんだったのではないでしょうか?

 

 大変申し訳なかったと思います。

 

 でも、びっくりしました。

 なぜなら、患者さんの中に一人も不満をこぼされる方がいらっしゃらなかったからです。むしろ、ほとんどの方が「先生、大変でしたね」「頑張って下さい」と励ましの言葉をかけてくださった。

 クリニックにいらっしゃる患者さんは、皆さん、本当に優しくて親切です。

 

 頭が下がる思いです。『感謝、感謝』です。

 

 

 結局、原因は、処方箋などの受付業務を管理しているサーバー内のネットワーク故障でした。技術担当者に来てもらい応急処置をしていただいたので、午後の診療はなんとか電子カルテから処方箋を出すことが可能になり、お待たせすることはなくなりました。でも、何も間違った使い方をしてはいなかったのにこんなトラブルが発生するなんて・・・。今日は、ずっとモヤモヤしていました。

 

 受付の二人も頑張ってくれました。ただでさえ狭い待合室です。そこで原因不明のトラブルが起こっていて普段通りのスムーズな受付業務ができません。そのような状況下にあっても、受付のスタッフは、来院される患者さんや何本もかかってくる電話への応対を丁寧にこなしてくれていたと思います。彼女たちは当クリニックの誇りです。彼女達にも『感謝、感謝』です。お疲れさまでした!

 

 

 でも、今回つくづく感じたのは、器械を過信してはいけないということです。もし器械が故障した場合の危機管理を日頃からきちんとしておかなければならない。電子カルテもそう。この器械はとても便利な道具ですが、その便利さに頼りすぎていると、いざとなった時に立ち行かなくなってしまう。

 

 今日は、患者さんにご迷惑をかけてしまった反省とともに、今一度気を引き締める1日になりました。

 

 

 

 

カルテが疲れるなら人間も・・・                   2015/6/9

 

 

 

 

 

 

 

 

みっともないこと 〜幼児化した日本社会〜

 

*国会の質疑で、安倍首相が質問者にヤジを飛ばしている姿。一国のトップとしての品位がない。でも情けないことに、この人を選挙で選んだのは私たち国民なのだ。

 

*自分たち(自公民)で選んだ憲法学者に集団自衛権のことについて『違憲」と指摘されたのにもかかわらず、ああだこうだと全く説得力のない説明をしている国会議員の姿。中には、「私が合憲と思うから合憲なのです」といった説明になっていない開き直りとも思われるバカげた答えも。でも、「違憲」と言われた時は、さすがに慌てたんだろうな。だって、よりによって自分達が選んだ憲法学者全員に言われちゃったんだから。その後の、意味不明で論理がめちゃくちゃな彼らの説明が、その狼狽ぶりを証明している。

 

*安倍首相の側近の若手議員や講師として招かれた百田という作家が、集団自衛権の勉強会の中で、沖縄の新聞社を潰してしまえばいい等の暴言を吐きそのリーダーが更迭されたが、「私的な会合だ」「あれは冗談だった」と言い訳をしている姿。冗談でも口に出るのは本音だから。言い訳は大人としても男としてもかっこ悪い。


*ジャーナリストの田原さんの番組で、集団自衛権の合法性について話すことになっていた国会議員全員が体調不良等の理由でドタキャンしたこと。テレビの前でいろいろ言われるのが嫌だったんだろう。今の政治家には、人を納得させられる思想もなければ器も責任もない。自分の保身しか頭にない。だから、都合が悪くなるとこうやって言い訳をして逃げるんだ。みっともない。子供みたいだ。こんな人たちが日本の政治をやってること自体情けない。

 

*某芸能人夫婦が、離婚騒動の渦中でお互いを批判し合ってドロドロになってる姿。お互いが惹かれ合って大事に思っていた時期があったはずなのに。最後くらい「立つ鳥あとを濁さず」...感謝し合って別れればいいのに、本当にみっともない。そもそも、恋愛であっても、結婚であっても、友人関係であっても、親子関係であっても、上司や部下との関係であっても....全ての対人関係の構築は、自分が主体的に行う営みだ。

 人と何らかの関係を築くということは、人のためではなく自分のためなのだ。自分がそれを希求するからだ。従って、そこには必然的に自己責任が伴う。人と関係を持つと様々な問題が起こるが、それは全て「人と関係を持ちたい」という自分が選んだ選択肢の中で起こることであり、であるからこそ、その問題を自分で納得し受け入れていく責任が求められる。相手に問題があるように見えても、自分には全く問題がないなんてことはない。人間関係のトラブルには、必ず双方に問題があるのだ。それを見ようともせず、一方的に相手のせいにしてドロドロやってる人達を見ているとみっともないなあと思う。まるでダダこねてる子供のようだ。「おかあさ〜ん、A子ちゃんのせいでこんなに傷ついたんだよお〜。なんとかして〜」って。もういい大人が。こういうケースには自己愛型の人格の人が多いが、このように、恋愛や結婚、対人関係の問題の責任を相手のせいにする人は、いざとなるとみっともない姿を示すことが多い。

 あの秋葉原無差別殺傷事件の犯人は、リストラなど自分の不遇を社会のせいにして無差別にたくさんの人の命を奪った。このケースは、先程の自己愛型人格がもっと重症化し、反社会性人格になった状態だ。本当は社会のせいなんかじゃない。精神面が未熟で幼児的なために、自分の問題を自分自身の問題として認識できず、社会に責任転嫁して逃避し自暴自棄になるという極めて自己中心的な人格が招いた事件だ。ここにも、幼児性が顕著に見られる。彼は極刑が確定した。

 

*遺族の了解も取らずに自分が犯した殺人についての自伝を出した「少年A」とその出版社。手記を出した元犯人も犯人だが、それを出版した会社も会社だ。出版社の社長は出版の理由を犯人の特異性を知ってもらうため必要だと思ったと説明をしているようだが、そこには、大事な人を殺された遺族の地獄のような苦しみに対する配慮が全く欠けている。同じような理由で出版を肯定している某フリーアナウンサーもいる。情けない。遺族の苦しさに気持ちが及ばないのはみっともない。

 

*最近の就職面接や入社式に親が同伴というシーンが珍しくないという。おかしくない?いい大人が、何で親同伴なんだ?いつまで親のおっぱいをしゃぶってれば気がすむんだ?ついていく親も親だが、それをおかしいとも思わず親を同伴させる若者も若者だ。みっともない。

 こういうのは、いまだに子離れ親離れができていない。だから、組織に入って上司に叱られただけで休んでしまったり親に文句を言ってもらったり・・・自分で責任が取れない。「俺を叱った上司のせいだ」なんてとんでもない理由を平気で言う若者もいるそうだ。以前にも述べたが、何か問題が起こった時他人のせいにする人は幼児的な人だ。人間的に未熟、子供の域を脱していない。成熟した大人ならば、自分が悪いもしくは自分にも非があると考え他人のせいにはしない。自分で責任をとろうとする。いわゆる、他罰的タイプと自罰的タイプ。自罰的タイプの人はうつ病になりやすく、他罰的タイプの人は新型うつ病になりやすい。もちろん、周囲の人に了解され信頼され同情されるのは前者の自罰的タイプの人であることは言うまでもない。いつも他人のせいにしている他罰的な人は、周囲の目にはみっともないと映るからだ。

 

*先日の、男子サッカーW杯一次予選。格下のシンガポール相手にホームでドロー。相手にがっちり守られてなかなか攻めきれない状況で、成功する可能性が極めて低い攻め方〜つまり、真ん中の本田などにボールを集めて狭いスペースを突破しようという攻め方〜を繰り返していた日本代表。失敗しても失敗しても画一的な攻撃に終始した。柔軟性も創造性も全くない試合運び。こんなことやってたら、相手はそのパターンを学習しもっと守りやすくなるだろうに。何でいっつもこうなるの?こういうシーンは今までに何度も見てきた。なんでいつも同じ過ちを繰り返すの?何でもっとサイドにボールを散らして、いったん相手の意識を別の方に向けさせて裏を狙うとか、一人でドリブルで持ち込んで相手を撹乱させるとか、ミドルからどんどん打っていくとかできないのか?今回も、男子日本代表の悪い癖が見事に出てしまった。今の男子日本代表は、監督に言われたことしかできない創造力のない幼児的なサッカーチームだ。練習でやったことしかできない。冒険やチャレンジする勇気がない。失敗するのが怖いからだ。それはすなわち、自分が失敗することに対して責任を取りたくないからだとも言える。だから、こんな戦術では戦況は良くならないとわかっていても監督が言われたことしかやらない、練習でやったことしかやらないのだ。また、その裏には若い選手の先輩への変な気遣いも見え隠れする(今回は若手もベテランも全選手が良くなかったが)。もしそれでうまくいかなくても「監督に言われるままにやったし練習通りにやったけどうまくいきませんでした。先輩も決めてくれませんでした」という言い訳ができ、監督や練習のやり方のせいにできるからだ。自分のせいではないと。みっともないし、情けない!

 それに反し、女子サッカー日本代表は素晴らしい。相手の特徴をよく分析し、その場の状況に応じて自分たちの試合運びを自由に変化させ勝ち進む。この柔軟性としたたかさ。これは紛れもなく大人のサッカーだ。

 残念ながら、女子の方がうまいし大人のサッカーをやっている。でも、これも言い換えれば精神力の問題だと思う。女子の方が精神的に大人だし強い。男子はその逆。精神的に弱く子供。だから、さっき言ったように想像力がないワンパターンの試合運びしかできない、いざとなった時に決められない。昔から「決定力不足」と言われているのは、言葉を変えれば精神的に弱いということだ。幼児的だということだ。みっもない。本当にみっともなく情けない。この体質はかなり重症だ。男子サッカーは女子をお手本にして見習わなければならない。


 

 

 今の政治はいったいどうなってるんだろう?非常に危険な言葉や思想が当たり前のように出てきてる。

 日本は先の対戦で、世界で初めて核爆弾を落とされ、あれだけボロボロになり傷ついたのに、なぜまた戦争参加を容認するような思想が出てくるんだろう?

       

       バカじゃねえ?本当に、バカじゃね???

 

 今の政治家に任せていたら、日本はまた歴史の過ちを繰り返すだろう。

 

 だいたい、「集団自衛権とは後方支援であって直接敵と戦うわけではありません」なんて子供だましのような説明をされて、どれだけの人が信じるんだろう?

 戦争になれば、いくら後方支援だって敵から見れば立派な敵対者だ。今の ISの行動を見れば明白だ。日本は直接ISを攻撃してはいないが、欧米と同盟を結んでいるというだけで日本人ジャーナリストが殺害された。戦争はいったん始まれば前線も後方もなくなる。敵か味方かそれだけだ。生きるか死ぬかだ。もし味方と認識されなければ、後方支援だって攻撃される。そんなの見分けがつかないからだ。そうなった時、日本政府はどう判断するんだろう?自民党の説明では、そういうケースでは逃げろと指示するという。

            

            バッカじゃね!!??

 

 戦争真っ最中に、「僕たちは攻撃できない身分だから逃げます」なんて同盟国に言ってその場を去れるわけないじゃん!さらに、日本人が攻撃されて犠牲者が出た時でも、何も反撃せずに逃げるの?同胞を見捨てて。そういう時は同盟国に攻撃してもらうの?そんなの、同盟国からすれば都合が良すぎない?だって、日本は危ないことはやらないでおいて(犠牲は払わないでおいて)、危ないことは同盟国にやらせるわけだから。

 集団自衛権というのは、こういう極めて自己中心的な制度なんだよ、きっと。

 こうやって考えてくると、集団自衛権という考え方は極めて矛盾に満ちた制度だということがわかる。こんなに矛盾だらけな制度だからこそ、自民党自身も野党や国民を充分に説得できる言葉を持てないでいるのだと思う。

 

そもそも、集団自衛権云々以前に・・・

 

 第二次世界対戦が終わった時、日本は全世界に向けてこう宣言したはずだ。

 「未来永劫、決して武器を持ちません。同じ過ちを繰り返しません」

                                と。

 

 それが、憲法第9条だったんじゃないの?

 

 これは、日本が世界に誇れる憲法だったんじゃないの?

 

   この言葉〜『約束』はいったいどこへ行ってしまったの????

 

 今の政治家たちはこういう一番基本的で原則的なことを見て見ぬふりをしてる。そして、その問題をすり替えて戦争参加の方向に持って行こうとする最初のとっかかりが集団自衛権のような気がしてならない。

 

 今の日本はとても民主主義国家とは思えない。数の力で驕り高ぶっている一部の政党とその党首が操る専制政治のような気がしてならない。でも、さっきも述べたように、これらの国会議員を選んだのは紛れもなく僕たち国民なのだ。だから、僕たちがしっかりしないといけない。

 

 今この時期に、国民が危機意識を持って声をあげ、主張し、自分たちの良識に従って行動を起こさなければ、この国は本当に危ない方向へ行ってしまうよ。本当にやばいよ。お国のためと言って死んでいった方々が、今の日本のあり方を見て天国で憂えているんじゃないだろうか?

 

 今のマスコミにも不満がある。今後の日本の運命すらも変えてしまうかもしれない法案が数の力で成立しかねないこのやばい状況にあっても、この問題について取り上げ議論をするTV局や新聞社がほとんど皆無に近いからだ。目につくのは、たくさんのタレントを参加させて安くあげるバラエティ番組ばかり。彼らの頭には視聴率のことしかないんだろう。

 なぜもっと、識者が議論するような特集をどんどん組まないんだろう?もっともっと憲法学者が出てきて議論を戦わせてもいいんじゃないか?彼らは何のために毎日憲法を研究しているんだろう?今こそ、自分たちの専門知識を活かして第9条の問題を議論し、素人の僕たちに示唆を与えてほしい。そして、もっともっとテレビ各局がそれを企画していいと思う。僕たち世論よりもマスコミの方がよっぽど大きい影響力を持つのだから。なのに、それをやらないのはみっもない。

 

 

 

 クリニックの経営者という立場から、政治に関するコメントは控えたほうがいいと考えて今までブログには書かないできたが、今は極めて憂慮する状況だと思うので、今の自分の本音を書いてみた。

 

 

  信用できないバカな政治、充実しない社会保障、残酷な事件、地震、火山噴火、大雨などの歪んだ地球環境....

 

 最近、漠然とした不安が日本全体を覆っている。

 僕たちを落ち着かなくさせている。

 

 政治も社会も個人も幼児化しているこの国に、今新たに地球規模の環境変動が襲ってきている。しかも、この環境変動は、今後悪くなることはあっても良くなることはないだろう。

 

 こんな状況で、僕たちはどうやって生きていくのか・・・。

 

 

 どうやって・・・。

 

 

 

 

 

バッカじゃね?????                   2015/6/27

 

 

*今回は、自分の社会への不満をストレートに表現するために、「バカ」というあまり響きが良くない言葉をあえて使いました。

 僕の中では、「バカ」という言葉には、拒絶感や否定感というよりも、呆れ、どうしようもない切なさ、滑稽さ、憐れみ、虚しさetc...といった複雑な感情が含まれています。

 

 

 

 

 

 

 

皆んな、大切なものが失われようとしてるよ!*1

 

ついに、安全保障関連法案が衆院で可決されてしまった。

 

しかも、強行採決という民意を無視したあまりにも理不尽なやり方で。

 

 安倍総理大臣は、国民の理解が得られていないことは自覚していると自分で言っていながらどうして採決するのか?まがりなりにも、彼は国民を代表するの総理大臣なのに。

 

 「自分たちは国民によって選ばれたから、自分たちの意見は国民の意見だ」・・・これは、安倍首相のみならず国会議員がよく言う言葉だが、本当にそうだろうか?そもそも、自公民が数的に野党を圧倒しているのは、あまりにも頼りない国会議員に疑問を抱き、本来なら最も選挙で影響力がある「どこに入れようか迷っている」人たちが投票に行かないために、結果的に与党が数で勝っているだけだ。決して、国民が与党の政治にOKと思っているわけではない。はっきり言えば、国民が心から信頼し任せられる政治家が与野党のどこにもいない結果、国民の「仕方ない」選択によって、今の政治家達は国会にいられるのだ。そこには、国民の諦めと虚しさがある。

 今の日本は民主主義国家ではないと思う。ある一部の政治家と政党による独裁政治のようだと言っても過言ではないと思う。

 

 野党も野党だ。今回の採決をどうして欠席するのか?

 いくら数では勝てないと言っても、国会議員ならきちんと話し合いの場に出て意見を述べ反対すべきだ。それなのに、欠席しておきながらあとからデモのようにプラカードを持ってなだれ込み議長を妨害しようとする。

 いったい何やってんだ!

 国会議員としての最低限の「話し合う」という義務を果たしていない。民主主義とは、話し合いを基本として成り立つものではないのか?

 「維新の会」も、採決の場には参加したが、過半数で可決される否やすぐに議場を後にした。これもおかしい。まるで、子供が駄々をこねているようだ。自分たちの意見が採用されなかったからさっさと帰りましょうって。だから、国民は野党にも期待できず、苦々しくもどかしい思いをさせられるのだ。

 野党は、せっかく自分たちの存在感を国民にアピールできる絶好のチャンスが与えられているのに、自らそのチャンスを潰し、自分たちのイメージダウンを招いてしまっている。まさに、自虐的でマゾヒスティックだ。

 いったい何をやりたいのかさっぱりわからない。そこには、ポリシーもなくただ場当たり的な自己顕示欲的パフォーマンスと、自分たちの立場はしっかり守ろうとする保守的な考え方が見え隠れする。

 そんな情けない行動しかできないのに、カメラの前では「私のおじいちゃんは戦争で亡くなった」などと涙を流してる女性議員がいたりする。全くの自己満足的パフォーマンスだ。もし涙を流すくらい悲しくて悔しいなら・・・、もし、本当に天国のおじいちゃんのことを思うのなら、なぜ衆院決議の際に欠席するのか?きちんと参加して決議に臨んで反対の意思を伝えるのがスジではないのか?スジを通さないでおいてお涙頂戴的な言動をするのは大人がすることじゃない。ましてや、彼女は国民が選んだ国会議員だ。お話にならない(涙)。こんな人でも年収何千万で議員特権が与えられる国会議員になれるのだ。

 

 このように、今の政治家たちは全く未熟で幼稚だ!

 こんな政治家たちに高い給料を払って政治を任せていること自体が悔しいし情けない。その給料は全て僕たち国民のバカバカしく高い税金から賄われている。

 

 

 

 今回の安保関連法案の可決は、その決議のやり方の横暴さもさることながら、もっと本質的な問題は、僕たち日本人がずっと心の片隅で大事にし基本とし誇りにしてきた憲法第9条が変わってしまうということだ。

 

 日本人が、『永遠に武器を持ちません。絶対に戦争はしません。二度と同じ過ちは繰り返しませんから』と世界に公言した大切な大切な平和的精神が、今踏みにじられ変えられようとしているのだ。

 それは、僕たち日本人のアイデンティティの変容、強いて言えば、消失に他ならない。

 世界でただ一つ原子爆弾を落とされた国、日本。・・・その日本の使命は、武器や武力を持たず平和を訴えていくことではなかったのか?

 

 今、憲法9条が変わってしまえば、日本人の平和を望む優しい精神性や誇りが失われてしまう。

 

 昔から大事にしてきた『おもてなし』の精神も、戦争を肯定する民族が持てるだろうか?それこそ、偽善的なものになってしまうのではないか?

 今回の憲法第9条に関わる安保関連法案成立は、今後、僕たち個人個人の精神性にまで少なからず影響を及ぼすだろう。

 もしそうなれば、僕たちは何をよすがに生きていけばいいのか?

 

 今回の安保関連法案の衆院可決は、僕たちが日本人としてのアイデンティティを失ってしまうかもしれないくらいのとんでもない『事件』なのだ。

 今まさに、その『事件』が国民の目の前で堂々と進行中だ!

 

 このことは、今後日本史の中で「陰の歴史」として記録されるだろう。今後、参院に舞台は移されるが、時間がかかれば60日ルールで衆院で最終可決が可能。つまり、先日衆院で法案が可決されたことで、安保法案は事実上成立したわけである。もちろん、首相をはじめ与党は計算済みだ。

 

 

 ほとんどの憲法学者が今回の安保関連法案を『違憲』と考えており(与党が選んだ憲法学者でさえも)、様々な団体や国民も反対を唱えている。世論調査では、今回の法案に反対である国民が過半数を上回っている。今日も、京都大学のノーベル賞受賞者を含めた様々な学者たちが集まって反対集会が開かれた。それなのに、なぜその意思が反映されないんだろう?このような大事な法案は、国民投票や解散総選挙してでも国民の信を問うくらいのことをしてしかるべきものだ。


 しかも、不気味なのは、これだけ深刻な状況が進行しているのに、テレビ局を始めとするマスコミが妙に静かなことだ。先日の衆院決議はNHKをはじめ何処のTV局も中継をしなかった。今まで普通に国会中継をしていたのに、なぜこんな大事な決議を中継しないのか!?おかしいだろう?マジで。

 なぜ?・・なぜ・・・??

 これは、国が圧力をかけているとしか思えない。そうでなければ説明がつかない。もしそれが事実ならとても恐ろしいことだ。この国が、もはや民主主義国家ではないことを示しているからだ。

 

 先日、ある記事が新聞に出ていた。

 憲法学者で龍谷大学のある教授が、安保法案反対のデモに参加した後、横断歩道を渡って国会議事堂の側に行こうとしたら警察官に止められ、これ以上進むなと言われたそうだ。別に国会議事堂に行こうとしていたのではない。ただ、用事でそちらの方の歩道に行こうとしていただけなのだ。彼の横を「普通の」人は妨害されずに通り過ぎていく。警察は『彼』だから歩行の自由を奪ったのだ。

 警察の言い分は「あなたはさっきまでデモに参加していたから、これ以上国会に近づいてはいけない」ということ。ただ、デモに参加したというだけで歩行の自由が制限される。デモ自体違法ではないのに。

 おかしくないか?

 何も法律上違反をしないで生きていても、その人の生活の自由が奪われる。これはまさに人権侵害。さらに権力の過剰行使だし、それを政府が公認もしくは指示してさせているのであれば、もはや恐怖政治以外の何物でもない。戦時中に逆戻り??そのうちに、こうやって政府の批判をしている僕も拘束されるかもしれない。これがあながち洒落にならないところが、今の政治の不気味さを象徴している。そう考えると、安倍首相の顔がヒットラーのように見えてくる。

 

 

 ただでさえ、今の日本は暗い。雇用、社会福祉、税金など様々な国民が希望を持てない政治のために、国民の間に失望と諦めの空気が蔓延している。国全体が「抑うつ状態」にあるように見える。今回の法案成立で、その症状がさらに悪化するのではないか?と危惧している。

 

 診察していると、患者さんからも様々な生活苦が聴かれる。消費税が上がり年金が減らされ介護保険料が上げられた。こんな状況では暮らしていけない。「診察代も払うのが大変だし、孫に小遣いもあげるゆとりがない」「お金がないから、風邪くらいは医者に行かず我慢する」という声をよく聴く。

 こんなに国民が困ってるのに、それに感知せず国民の心を暗くさせる政治ばかりやってる政治家たち。自分たちの既得権益はしっかり守ろうとする政治家たち。そんな人たちに「国民の意見を代表して国会にいる」なんて言われたくはない。

 

 

 僕たち日本人は、これから何を支えに生きていったらいいのか?

 

 ただでさえ生活が苦しく国民に冷たい政治に期待が持てないのに、今回さらに日本人の精神的支柱の一つである第9条が変わってしまったら・・・

 

 いったい、何を誇りに生きていけばいいのか?

 何に希望を持って生きていけばいいのか?

 

 安倍さん、教えてくれ!

 あなたは、戦争で日本人がどれだけの犠牲を払い苦しんだか、本当に分かってるのか?

 本当は、あんた自身ちゃんとわかってないんじゃないのか?

 お前さんは、俺たち国民をどこへ連れて行こうとしてるのか?

 国民の幸せよりオバマさんとの「公約」を守るプライドを優先してるんじゃないか?

 全く金銭感覚がズレてる新国立競技場のプラン白紙撤回を決めたことくらいで国民の支持率低下が防げると思っているのか?

 国民はあんたが考えるほどおバカさんじゃないよ!そう思ってんならそれはあんたらの奢りだし、完全に国民を見下していることだよ!

 

    

    あんたたち政治家の方が、よっぽどおバカさんなんだよ!

 

 

 

   これからの日本は、いったいどこへ行ってしまうんだろう?

 

   この嫌な流れを、なんとか食い止められないだろうか?

 

 

 

 

 

梅雨が明けたのに陰鬱は明けない             2015/7/20

 

 

 

 


皆んな、大切なものが失われようとしてるよ!*2

 

じゃあ、俺は今、いったい何やってんだ!?

大切なものを失おうとしてるのに。

 

 日本人のアイデンティティが失われ、日本人が戦争に参加することになれば、PTSDなど精神疾患が必ず増える。ただでさえ今の日本人は『国民総抑うつ状態』で自殺大国なのに、この法案が成立してしまえばもっとその症状は悪化する。自殺者も増えるだろう。僕たち精神科医ががんばって自殺を食い止めようとしても焼け石に水だ。それがわかっているなら、精神科医としてやるべきことはないのか?何かやれることはないのか?

 日本中の精神科医が集まって署名運動はできないか?そんなことを考えている。「時すでに遅し」の感は否めないが。

 

 先日、1万人の学生が集まって日比谷公園で安保法案反対の集会をやったそうだ。今まで、あまり主張をしないのが日本の若者たちのイメージだったが、今回の彼らの行動を見て少し希望が湧いた。この集会は、個人レベルのツイッターで集会を呼びかけて実現したのだそうだ。

 きっと、国を変えるのは、最初はこういった個人レベルの行動が契機となるのだろう。世界中で起こった革命など、歴史を見てもそうだ。

 

 個人個人の力は小さなものだけど、それが合わさればとても大きな力になる。それこそ、あの横暴な政治家たちを黙らせるだけの威力も持つことができるだろう。やがては、その威力は僕たちの国を良い方向へ転換する原動力にもなり得るのだ。

 

 一部の偏った考え方の国会議員の数で国の方向性が決まってしまうとすれば、あとは、国民一人一人の意識を高く持ってその力を結集するしかない。

 

 僕たちの将来を安心と希望に変えるのは、最後は自分たち一人一人の行動次第なのだ。

 

 

 

 

 

俺は何ができる?                      2015/7/20

 

 

 

 

 

 

 

 

皆んな、大切なものが失われようとしてるよ!*3


改めて、広島平和記念公園にある「原爆死没者慰霊碑」に書かれてる碑文を記しておきたい。

 

 

 

  

 

 

          『安らかに眠ってください

                      過ちは 繰返しませぬから

 

 

 


 

 

 

日本人の一番大切なもの                 2015/7/20

 

 

 

 

 

 

 

 

陰と陽

 

世阿弥の代表作「風姿花伝」の一説にこんな言葉を見つけました。

 

 『秘儀にいう。そもそも一切のものは、陰、陽、和するところの境に成就することを知るべきである。昼の気は陽の気である。されば、いかにも静めて能をせんとする企ては陰の気となる。陽気の時分に陰気を生じさせること、陰、陽、和する心である。これが、能がよく出で来る成就の初めとなる。これは、観客が面白いと感じる心の元でもある』

 

 「風姿花伝」は、室町時代に能楽の大成者として生きた世阿弥の代表的著作で、能楽の心得やそれを超越した、芸術学的および哲学的世界観が示されている名著です。

 何度読んでも新しい示唆を受ける書物ですが、その中にあって、今回は『陰』と『陽』という二語に共感しました。

 

 『陰」と『陽』があって物事は完成する。そのどちらが欠けてもダメ。能楽だけではなく、芸術作品、いやそればかりか、全ての万物の事象が『陰』と『陽』で成り立っている。

 『陰』だけでもダメだし、『陽』だけでもダメなのです。

 

 人の心もそう。人の体もそう。人のあり方もそう。人の人生もそう...『陰』があり『陽』がある。それでこそ、そこに調和が生まれ安定する。

 

 僕たちは、とかく『陰』を嫌って『陽』ばかりを目指そうとしますが、それは間違ってるし、そんなの最初から無理なのです。だって、この世の事象は『陰』と『陽』からできているのですから。その両者で完成するのですから。

 

 『陰』があるから『陽』が輝き、『陽』があるから『陰』が深みを増すのです。

 そのどちらかだけであったとしたら、とても変化のないつまらない世界になってしまうでしょう。

 

 だから、『陽』だけではなく『陰』もきちんと受け入れなければならない。

 

 14世紀に生きた世阿弥がこんない深い境地に達していたことは改めて驚きです。いや、むしろ、現代よりも厳しい世相であったからこそ、このような素晴らしい世界観に達し得たのかもしれません。

 

 「風姿花伝」は、現代人が読んでもまったく色褪せない、普遍的な世界観を表した書物だと感じました。

 

 

 

 

 

染み入るひぐらしの音                        2015/8/9

 

 

 

 

 

 

 

 

 

心性

 

子供の頃からよく浮かぶイメージがある。

 

自分が独りでたくさんの敵に向かって立っているシーン。

『夕陽のガンマン』(笑)?

何をカッコつけてと言われるかもしれないが、小さい頃から僕の中によく沸き起こってくるイメージだ。

 

 どうしてこんなイメージが浮かぶようになったのかはわからない。ドラマか映画を見てそれを真似ているというわけでもない。でも、かなり小さい頃(おそらく小学校低学年の頃)から、僕の心の底辺にはいつもこんなイメージがある。

 

 決して、ヒーローのような、そんなかっこいいものではない。

 

 むしろ、その心性にあるのは孤独・・・僕はそう思う。

 

 幼少期から孤独だったんだと思う。だからといって、親が離婚したとか友人に恵まれなかったということはない。幸いなことに両親はいたし、友人や先輩にも恵まれた。

 でも、昔からどこか一匹狼的な思いがあった。いつも親の顔色を伺っていたし甘えられなかった。家庭の外でも、群れの中に入るのが嫌いだし強い奴に媚びるのは嫌だから「仲間」という付き合い方はしなかった。極力「中立」を通した。だから、「仲間」が好きな奴からはよく嫌がらせを受けたし、先輩からは生意気だと言って登下校時に毎日殴られたり石を投げつけれたことも一度や二度ではない。

 

 今でもそれは変わらない。毎日孤独だと感じる。

 それは、僕の周りに誰がいたとしても。それがたとえ親や親族や友人、仕事仲間であっても。

 

 そもそも、自分以外の人から孤独感を癒されるのが苦手だし、それ以前にどうやって甘えて良いかわからない。人に甘えてもらうことできても、どうやって甘えていいかわからない。本当にたまにおどけたり下手な冗談を言うことがあるが、そんな時が唯一人に甘えていると感じる時だ。

 

 だから、小さい頃から自分の辛さは自分で解決することが自然だったし、物心ついた頃にはすでにそれが当たり前だと思っていた。

 今の僕があるのはたくさんの人たちのおかげだ。そんなことは百も承知だ。そういう意味では、今まで自分の力だけで生きてきたわけではないことはよくわかっている。僕を支え愛してくれた方々に心から感謝している。

 でも、だからといって、自分の「孤独感、一匹狼感」が消えるわけではないのだ。

 

 むしろ、孤独が好きなのだ・・・そう考えたほうがしっくりいく感じがする。そのほうが気が楽だ。

 

 人と関わるときも、「どんなときもベッタリ」というのではなく、常にある一定の距離感を保って生きていた方が気が楽だし、その方がどんな人間関係でもうまくいくような気がする。

 

 「孤独」や「不安」を共有し合うのではなく、自分の責任で抱えていく。それを辛いと感じるのではなく、そういうものだと思っていく。僕が、どこか他人を自分の領域に入れないような雰囲気を醸し出しているとすれば、そんな心性があるからではないかと思う。

 

 幼少期からの、たくさんの敵を目の前にして毅然と立っているイメージ。たとえ、その敵が鉄砲や矢で自分を打ってきても一歩も逃げることなく立ち続ける。あの弁慶のように。小さい頃からよくそんなイメージを頭に浮かべる。そうありたいと思う。

 それが僕のかっこよさ。

 その覚悟と潔さが、僕の「かっこいい」と思える心性だ。

 

 たえ、それで傷ついたり命を落としても構わない。それは自分が選んだことだから。誰の助けもいらない。誰のせいにもしない。自分がそういう選択をしたのだから。

 僕が生きるという営みの中でしてきた全ての選択は、いつもそういう覚悟があった。仕事も人との関係の在り方も。

 それは今この瞬間も変わらないし、これからも変わらないだろう。

 

 これからも、筋が通るのであれば自分以外の全ての人を敵に回しても闘う。誰の助けも借りずに。たとえ、それで生命が絶たれても構わない。

 

 僕は、ただ命があるということには価値を置かない。今の自分が自分らしくどうあるか。そして、どう自分らしく与えられた命を全うするか。いつもそれを考えている。

 

 だから「敵」の前では絶対に逃げない。言い訳はしない。人のせいにはしない。

 そんなことはめちゃくちゃカッコ悪いと思うからだ。

 全てを「敵」にしても、逃げずに闘い責任を持つ。

 それが筋を通すということ。その姿勢は僕の生き方のベースに常にある。

 

 孤独も一匹狼も全てこういう心性から生まれた感覚だ。こういうふうに生きようとすれば必然的に生まれてくる感覚だ。だから、他人は近寄りがたいものを僕に対して感じるだろう。気難しい奴だとか、どうしてもっと素直になれないんだろう?と感じるだろう。それがまた孤独を呼ぶ形になる。だから僕はいつも「孤独」なのだ(笑)。

 

 

 こんな自分は、好きで、嫌いで、好きだ。

 

 それが自分を自分たらしめる在り方。

 自分らしい生き方。 

 だから、この命が尽きるまで、最後の最後まで一匹狼でいたいと思う。

 誰にも媚びずに甘えずに、敢然と敵に向かって対峙している在り方で。

 

 それが僕にとってのかっこよさであり、僕の生き方のベースにある心性。

 

 

 

 

 

 

 

『愛と哀しみの果て』のデニスがいい           2015/8/28

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

筋が通らない

 

日本の最高決定機関である国会が、全くおかしくなっている。

 

 安保関連法案審議。与党は、何が何でも今週中に法案を成立させる意向のようだが、これまでの審議過程を見ていると全く筋が通らないことばかりだ。

 

 今回の法案に関して最も大事なポイントは、この法案が「違憲」か否かということのはずだ。

 

 国民は、安保法案の必要性の有無以前に、この法案を通すことが憲法違反じゃないか?という疑問を持っている。その根本的な問題を国会でじっくり審議し国民に是非を問うべきなのに、周辺国への脅威に対応するためといった必要論にすり替えられている。首相でさえ、最初はホルムズ海峡の機雷撤去のためと言っていたのが後になってそれを撤回するような始末。首相を始め、今の内閣は、誰一人として今回の法案の妥当性を説明できていない。だから、国民が信頼できないのは当然なのだ。

 憲法上適切なのかという一番大事な論点に焦点を当てないで論点をすり替え、論理的におかしい答弁に終始し、「形だけの」公聴会を開催して、いかにも「やるだけのことはやりました」的な内容で法案を通そうとしている。


 それって違うでしょ?

 おかしいでしょ?

 論点はそこじゃないでしょ?

 まず、この法案が合憲か違憲かが話し合われてからの話でしょ?

 

 たぶん、大方の国会議員も憲法学者もわかっているはず(わかっていると信じたい)。ただ、法案を通したいために論点をすり替えている。

 憲法を守らなければならないことは小学生だってわかることなのに。

 良心に問えばわかることなのに。

 

 今国会で起こっていることは全くもって横暴だし、国民不在の、国民の意思を尊重しない、国民をバカにしたやり方だ。そこには、国会議員の利権や貧しいプライドが見え隠れする。

 

 

筋が通らない。全く通っていない。

 

今の国会は、横暴で幼稚だ。

 

 国会議員の中から、一人でもいいから超党派的な筋を通す識者が出てきてほしい。

 そして、勇気を持って、この日本という国を正しい方向に導く提案をしてほしい。

 

 僕も何かやれることがないかと思い、7月に安保関連法案反対の署名を意見書付きで提出した。

 

 今、国会議員の良識が問われ、試されている。

 

 

 

 

 

今日も雨か...                      2015/9/17

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


死ぬから生きる

 

最近、『死』というものを意識するようになった。

 

 といっても、決して何か悩み事やつらいことがあって死にたいと思っているわけではない。

 

 ただ、いつ命がなくなってもおかしくない年齢になってきているし、最近の自然災害などのニュースを見ていると、自分もいつ災害に巻き込まれるかわからない。全く関係のない市民が事件に巻き込まれることも増えている。

 すべて、他人事ではない。

 そういった理由で、最近、若い頃よりも、ずっと『死』というものを意識するようになった。

 

 人は必ず死ぬ。それは当然のことだが、若い頃は死というものをあまり意識しないため、まだ時間があると思って漫然と生きていた。しなければいけないことを先延ばしにしていた。

 

 しかし、今は『死』というものを以前にも増して意識するようになり、そのせいか、毎日与えられている『生』の有り難味を強く自覚するようになった。とりたてて大きな病になることもなく災害や事件・事故に巻き込まれることもない状態が奇跡的なのだと感じるようになった。

 

 『死』をリアルに意識して生きると、『生』の尊さもリアルに感じられるようになる。

 毎日生きていられることがありがたいと思える。

 

 いつ『死』んでもおかしくない、いつ『死』が迎えに来てもいい...

 

 そう覚悟を決めて生きると、一日一日が大事になってくるし、毎日が真剣勝負になる。

 

 今の自分は、若かった頃に比べると、格段に毎日を大事に生きてるし充実していると感じる。

 生きる苦しさ・つらさは増してはいるが、その代わり充実感も増している。感じるもの全てが愛おしく思える。

 

 真剣勝負をすれば、つらさや苦しさは大きくなるが喜びや充実感も大きくなる。

 

 若かった頃は、苦しいとかつらいとか寂しいとか不安とかいったものをできるだけ遠ざけようとしたし、そこから逃げたいと思った。

 しかし、今は、そういった陰の要素も悪くない。むしろ味わってやろうと思えるようになった。

 これも年の功というものか。

 

 世の中では『死』という言葉はタブーとされる雰囲気がある。

 しかし、『死』を見ないようにしたりそこから逃げようとすると、今の『生』をきちんと全うできなくなるように思う。

 

 ちょうど、闇が深ければ深いこそ星の輝きが増すように、『死』を充分に意識して生きてこそ『生』が輝くのではないだろうか?

 

 『死』と『生』は表裏一体。

  コインの裏と表と同じ。

 『死』があるから『生』があり、『生』があるから『死』がある。

 

 ならば、『死』から目を背けないで生きよう。自分の『死』がいつ訪れるかわからないが、その日が来るまで一生懸命『生』を全うしよう。

 

 そして、『死』がお迎えに来た時、「ここまでやったんだからもう後悔はない。充分」と思えるようになっていよう。

 

 最近は、こんな風に考えるようになった。

 

 

 

 

人間はなんと弱い生き物か                2015/9/17

 

 

 

 

 

 

 


これからが本当の...

 

ついに安保関連法案が成立してしまった。極めて横暴な形で。

 

 でも、今回の「事件」は、日本に『真の民主主義』が始まる第一歩だと思っている。

 今回、全国各地で国民が声をあげた。平成になって、こんなに国民が政治のあり方に対して激しく反応したことは今まであっただろうか?こんなに国民が政治に対して怒ったことがあっただろうか?

 

 今回の法案は、法規上では成立したが国民感情の中では成立していない。

 

 今こそ、国の行く末を決めるのは、横暴な数に任せた国会議員ではなく僕たち国民自身なんだということを示さなければならない。

 

 そのためには、来年予定されている参議院選挙で、今回の`おとしまえ’をきっちりつけさせてもらわなければならない。

 

 本当の民主主義は、これから始まるんだと思う。

 それは、僕たちの力で実現できることなのだ。

 

 今回の暴挙とも言える政治家たちのやり方に抱いた怒りを忘れずに、来年の参議院選挙に臨もうと思う。

 

 

 

 

 

ひまわりが頭を垂れて寂しがってる                                  2015/9/20

 

 


 



 

 

日本人が大切にしてきたもの  〜日本人の心性〜

 

それは、『融和』ということだと思う。

 

 日本人は、古来から戦闘を積極的に好む民族ではなかった。

 最近日本史を少しかじるようになったばかりの僕だから間違いがあるかもしれないが、約1万年も戦闘の痕跡がない縄文時代を始め、民族同士の内乱はあったにせよ、他国に攻め込んで他の民族を侵略・征服するという行為は、長い歴史の中でもそんなに何回もあったわけではない。

 大和朝廷統一時代の倭国朝鮮出兵や天智天皇時代の白村江の戦いは、侵略というより朝鮮半島や大陸の強大な文明や文化に「対抗」するためといった背伸び・意地っ張り的な感が否めないし、その後は豊臣秀吉時代の文禄の役までは他国に出向いての戦争はない。明治の日清・日露戦争、大正の第一次世界大戦、昭和の日中戦争・第二次世界大戦は、日本の歴史上最も侵略的要素が強いものでしっかりと反省すべき行為だと思うが、これらも国民の総意というより軍部の暴走によるものという見方が一般的である。これらの大戦では、国民は、国(主に軍部)の情報に翻弄され騙されていた要素が強い。

 長い日本の歴史の中で、日本が他国に侵略的に仕掛けた戦争は片手で数えるほどしかないのだ。

 

 古代から『大和』という言葉は日本人の精神を象徴する言葉として捉えられている。

 「大和」は、もともと「やはと」「やわと」という温和、平和を意味する言葉が語源と言われている。このような語源を有する『大和』は『大きな和』=『普遍的な融和、平安、温和』を表しているのではないか?(だから、この言葉が、第二次世界大戦で日本軍を代表する主力戦艦に命名されたというのは、軍部の全くの勘違いではないかと思うのだが言い過ぎだろうか?)。

 

 そもそも、我々日本人の基本的な感覚として、他国に攻め入るとか交戦するという感覚はピンと来ない。むしろ、何かトラブルがあったときは話し合いや譲歩という形で解決するのが得意なはずだ。

 

 

 日本の神話の代表である「古事記」にはたくさんの神が出てくるが、その営みの根底にあるのは荒々しさではなく、絶妙な『融和』『平和』『話し合い』的あり方である。これは、ギリシャ神話を代表とする西洋の神の『戦う』あり方とは全く異なる、日本独特のものである。

 また、聖徳太子が関わった「十七条の憲法」の第一条には『和(やわらぎ)をもって尊しとなし さかふること無きを宗とせよ』と書かれ、その精神が最も重要とされている。つまり、融和と話し合いが大切と説かれているのである。

 

 日本人が大事にしてきた心性はこの『やわらぎ(和)』ではないのか?

 

 このように、日本の歴史を振り返っても、我々の根底に『温和』、『融和』や『平和』というものを志向し大切にする意識があったように思う。

 そして、現在の皇室もその伝統を継承しておられるように思う。

 

 世界で最も安全な国として日本が挙げられるのも、この国民性によるところが大きいのではなかろうか?

 

 

 だから、今回成立してしまった安保関連法案は、日本人の精神性=心性からすると全く異質なものと感じてしまうのだ。日本人が古来から大事にしてきた心性と相反するものだと。

 戦争の根底にある「目には目を」という考え方は、絶えず侵略が繰り返された大陸的な発想で、そもそも海で囲まれそのような経験がほとんどない日本人にはあまり馴染みのない発想なのである。

 

 『不戦』と『平和』いう考え方。それは、先の大戦で心身ともにボロボロになった日本人が、その反省から行き着いた考え方ではなかったか?

 それは、自分たちが行った戦争という過ちに対する反省から学び、また再発見した古来からの日本人の基本精神〜魂〜なのではないか?

 そして、それを憲法として保証したのが憲法第9条なのだ。  

 

 今回の法案成立は憲法9条の解釈を変えるということ。

 それは憲法違反であるだけではなく、『和(やわらぎ)』という我々が最も大切にしてきた世界に誇れる日本民族の精神を踏みにじり否定するという歴史的な暴挙なのだ。これは、日本人としてのアイデンティティを根底から揺るがす出来事といっても過言ではない。

 

 とんでもないことなのだ。

 とてつもなくおかしいことなのだ。

 日本人として絶対にあってはいけないことなのだ。

 

 安保関連法案成立は、国会自らが日本人を日本人たらしめる最も大事な心性を根本から歪めてしまったことになるのだから。

 

 

 今の日本は、様々な分野で混乱し行き詰っていて国民に不安が広がっている。なかなか回復しない経済、進まぬ被災地復興、次から次へと起こる自然災害、原発問題、周辺国からの圧力etc.....。

 

 このような困難な状況を乗り越えていくために不可欠なのは、日本国、日本人としての信念〜ポリシー〜ではないか?

 どの国にも依存することなく自律した精神的信念こそが、今大事なのではないか?それは国民の拠り所だから。『日本人らしさ』であり、日本人を日本人たらしめるものだから。

 そして、その日本人として大事な信念=精神性=心性... それが『和』であると思うのだ。

 

 

 東京オリンピックの招致合戦の時、『おもてなし』という言葉が社会用語となった。この精神も『和』から生まれるものではないのか?

 

 『おもてなし』〜『和』〜の心をアピールしてオリンピックを誘致を獲得した日本が安保関連法案で有事の際の戦争参加を認めたというのは、日本人の心性から言って全く矛盾しているし、そのような態度は海外の不信や疑心暗鬼を産むだろう。

 

 今まで日本人が長い歴史の中で大切にしてきた『なごみ(和)』を尊ぶ民族的精神性(心性)が、今回の法案成立でないがしろにされようとしている。しかも、民意が全く反映されない形で。

 そこが全くもって情けないし悔しい。

 

 

 今こそ、国民一人一人がこのことに強い関心と危機感を持ち、今後自分なら何ができるかを考えていかなければならない。

 

 自分たちの利権ばかりを守り民意を聴こうとしない国会議員にこの国の政治を任せていては日本は間違った方向に行ってしまう。

 今こそ、日本人が大切にしてきた日本民族のスピリチュアリティを守らなければならない。そして、もう一度日本人としてのアイデンティティを確立しなければならない。

 それを実現するのは、誰でもない私たち国民一人一人なのだ。

 

 くどいようだがもう一度言う......

 

 日本民族の基本的な精神性(スピリチュアリティ)=心性

 それは、

  

 

   『温和』、『融和』、『平和』であり、『不戦』

 

 

 

 

 僕はそう考える。

 

 

 

 

 

温故知新                        2015/9/21

 

 

 

 

 

 

 

 

なぜ政治のことも書くのか

 

このブログを始めた時、僕は政治に関しては一切書かないつもりでいた。

 

 それは、医師の立場上、政治に対する個人的な考えを書くことが良いかどうか迷いがあったからだ。

 しかし、今は書いていいと考えている。なぜなら、一日本人としても政治には関心があるし、医師〜精神科医〜としても政治に関心を持つことは大事だと思うからだ。

 私自身も私のクリニックにいらっしゃる患者さんも、この日本という国で生きている。僕たちの生活や人生が、この国のあり方に深く結びついている。だから、政治に無関心ではいられないのだ。

 

 クリニックには、リストラにあった方や乏しい年金で必死に生きておられる方、災害に遭われた方など様々な方々が訪れる。その方々のお話を聴かせていただくと、この国の政治のあり方に関心を持たざるを得ない。なぜなら、患者さんの心とこの国のあり方は密接に関係しているからだ。そういう点で、一精神科医としてもこの国の行く末に強い関心を持たざるを得ないのだ。

 

 この国の政治はなんとも貧しい。弱者に冷たい政治だ。先日、クリニックにいらっしゃったある患者さんが「今の少ない年金では、孫にお年玉もあげられない。それが不憫で...」と仰っておられた。老後の生活という点だけでも、この国の問題は極めて大きい。僕たちは老後に夢が持てない。老後に夢が持てない国なのに、子供達や若者たちに夢や希望を持てと自信を持って言える大人がどれだけいるだろうか?

 

 日本は経済大国と言われてきた。国民の個人資産の合計は世界でも有数と言われている。今の子供達は、生まれた時から物に溢れ何不自由なく暮らせる。治安に関しても、世界で一番安全な国という評価は変わらない。この国には、それだけの経済力と社会システムは備わっている。

 

 でも、なぜこんなに自殺する人が多いのだろう?

 なぜこんなに不安が拭えないのだろう?

 なぜこんなに夢や希望が持てないのだろう?

 

 国民は皆、同じように感じているのではないか?

 

 それは、今の政治のあり方が真の民主主義ではないからだ。国民主権ではなく、政治家と官僚という特権階級が民意を無視して国の行く末を決めてしまっているからだ。彼らの価値観が国民のそれと大きくズレているからだ。

 

 どうせ国民が声をあげたって政治は変わらない...国民は今までこのようにつぶやき諦めてきたのだはないか?だから政治は変わらなかった。数の暴挙の前に、民意が無視され続けてきた。今回の安保関連法案もそうだ。

 

 しかし、今回の安保法案成立の前後に、ようやく国民が声をあげ始めた。国会の前には数万人のデモ隊が集結した。集まった人たちは特定の組織でもなく宗教団体でもない。普通の一般市民だ。このような大きな国民のムーブメントは、あの安保闘争以来なかったのではないか?

 そういう意味では、このムーブメントがこれからの日本が本当の意味で国民主体の政治に変わっていく転機になってくれればと思っている。

 そのムーブメントの一つとして、僕もブログという場を通して時々意見を述べさせていただきたいと思っている。

 

 

 

 

秋雨が長すぎる                     2015/9/25

 

 

 

 

 

 

 

今、この混沌とした時代に

 

とても生きづらい時代になった。最近そう思う。

 

 僕が子供の頃は今よりずっと貧しかった。パソコンなんてもちろんなかったしスマホどころか携帯もなかった。電話といえば自宅の固定電話(あのダイヤルを回すやつ)か公衆電話だった。洗濯機はグルグルと自分で回る脱水機が付いていると「高級」だった。普通は、洗った衣服を二本の棒に挟んで力任せに回して絞るのものだったからだ。アメリカに追いつけ追い越せの時代だったから、親父たちは必死に働いていた。どこの家のお父さんも深夜残業は当たり前。がむしゃらに働いていた。もちろん、どこの家のお母さんたちも、家事と育児を当たり前のように頑張っていた。時間的ゆとりとか自由なんていう概念はほとんどなかったのではないか?経済的にも時間的にもゆとりがないのが当たり前だった。

 でも、今より物はなく生活も苦しかったが、頑張った分だけ返ってくるものがあった。一生懸命勉強すれば有名大学に入れたし、有名大学に入れば有名企業への就職が約束された。会社では働いた分だけ給料は上がったし昇進もした。終身雇用制だったから、社員だけではなくその家族までしっかりと面倒を見てくれた。

 『頑張った分だけ返ってくる』・・・そういった確信のようなものがあった。ある意味、とてもシンプルでわかりやすかった。生活が豊かになること...もっとわかりやすく言えば、たくさんお金を稼いで良い物を買って生活のレベルを上げること...それが、一般庶民の夢であり希望だったのではないか?だから、国全体にも活気があった。

 

 ところが今は違う。

 国に活気がないし、僕たちの生活は不安に満ちている。どこか満たされていない。

 生活はアメリカ並みに豊かになり、世界の中でも「技術大国」「お金持ち」「先進国」「長寿国」と言われるまでになり、昔のお父さんやお母さん達が描いた豊かな生活〜夢や希望〜は叶ったはずなのに。技術も進歩して、時間的にも経済的にもゆとりや自由が生まれたはずなのに......

 

 なぜ?

 

 今は、有名大学に入っても良い企業に入れるとは限らない。東大生に就職浪人が増えているという記事を何かで読んだことがある。また、たとえ良い企業に就職できたとしても定年まで在職できるという保証はない。いつリストラされるかわからない。リーマンショック以降、未だに不況からは立ち直れず、どこの企業も年功序列的価値観から成果・能力主義的価値観に転換し始めた。老後も心配だ。年金は減らされ、受給年齢も引き上げられた。実際、年金だけでは暮らしていけず自殺をする人も出てきている。あの新幹線の中で焼身自殺をした人もそんな理由だったと聞いている。

 現代社会は、ひと昔前に比べ非常に複雑で生きづらい状況になっている。

 

 それは、以前より現代社会の方が複雑化して、生きていく辛さや苦しみが大きくなっているからではないか?

 

 昔は、努力した分だけ「お金」や「物」という目に見える形で返ってきた。そして、それがある種の生活のレベルを計るものさしでもあった。だから、目標(=夢、希望)がわかりやすかった。努力した量に比例して生活レベルが上がっていったからだ。目標がわかりやすかったし手に入りやすかった。

 ところが、今の社会は、目標が見えにくいし努力してもわかりやすい形で返ってこなくなった。生活が豊かになったことが、かえって目標を見失わせてしまったように見える。「国民総中流社会」と言われて久しいが、皆がそこそこの生活ができるようになったことで、かえって夢や希望を持てなくなってしまっているように見える。

 それは、現代社会が、あのアメリカに追いつけ追い越せだった高度経済成長時代の「夢や希望=生活が豊かになること」という価値観では通用しなくなっていることを意味する。特にリーマンショック以降、別の価値観が必要になっている。まさに価値観の転換が求められているのだ。

 

 それはどんな価値観だろうか?

 

 この問いに対する答えはなかなか難しいが、少なくとも言えることは、「物」や「お金」といった物質的なものを目標にしたりものさしにしたりするような価値観ではないということだろう。

 我々が「物質的なもの」では満たされないとなると、僕たちを満たしてくれるものは何なのだろうか?それは、「物質的なものではないもの」・・・つまり、「精神的なもの」なのではないか?

 

 あの高度経済成長時代が教えてくれていることは、いくら「お金」や「物」が与えられ生活が「物質的に」豊かになったとしても、「精神的なもの」つまり「心」が豊かにならなければ満たされないということだ。生活を豊かにするためにがむしゃらに頑張っていた頃はそれがわからなかったのではないか?ある意味ではその方が幸せだったのかもしれないが。

 

 そもそも人間というのは、物がなくて不自由なくらいがちょうど良いのかもしれない。そう考えると、人間とはなんて貪欲な生き物なんだろう?

 自殺者の数が発展途上国よりも先進国の方が多いという事実は、物質的に豊かになることが必ずしも幸福になることではないということを示している。話が少々大きくなるかもしれないが、それは、資本主義社会の矛盾や限界をも示唆しているのではないか(だからといって共産主義社会に転換した方が良いと言っているわけではないが)?

 

 生活が豊かになった現代こそ、人間の本質的な問題に直面しているような気がする。

 

 人間とはどういう生き物か?

 科学や文明とは何か?

 豊かさとはどういうことか?

 生きるとはどういうことか?

 幸せとは何か?

 満たされるとはどういうことか?

 辛く苦しい人生をどうやって生きたら良いのか?・・・etc

 

 

 これからは昔以上に心の問題が増えていくだろう。

 それは、先述したように、現代社会が複雑化し混沌としていて夢や希望を持ちにくくなっているからだ。人が自分の価値観を確立しにくくなっているからだ。だから、自信を持って自分らしく生きられない状況に陥っている。

 

 従って、これからは、昔以上にサバイバル能力が必要になっていくだろう。それは、良い高校や大学に入るとか、良い企業に就職するとか、仕事で成果を上げるとか、お金をたくさん稼ぐとか...そういう能力ではない。

 どんな状況になっても自分を見失わず乗り越えていく精神力、柔軟性、冷静さ、自己肯定感、楽観主義、コミュニケーション能力など......それらの要素を合わせ持った『人間力』だ。この混沌とした時代を生き抜くためには、いずれも必要不可欠な能力だ。

 

 

 そして、この混沌とした生きづらい世の中だからこそ、精神科医の役割もますます重要になっていくだろう。

 そのためには、僕自身も『人間力』を磨かなければならない。

 

 これからも、命が尽きるまで自分を見つめる日々を続けていこうと思う。

 

 

 

 

 

つらくて苦しくない人生なんてありえない             2015/9/26

 

 

 

 

 

 

 

 


 

秋から冬に

 

毎年、この季節は嫌だ。

 

 だんだん日が短くなって寒くなる。「また、あの雪と付き合うのか」なんてつい先のことまで考えてしまって暗くなる。

 よく、春が一年中続いたらいいのにと思う。

 

 でも、本当に一年中春だったら・・・それは、もう「春」と言わないんだろう。「春」が存在するのは、そうでない他の季節があるからだ。寒い冬や暑い夏があるから「春」は「春」になるのだ。

 

 朝日が眩しいのも、漆黒のような夜の闇があるからだろう。太陽の光が強烈だからこそ、月の穏やかな光にホッとするのだろう。星がはっきり輝いて見えるのも、闇が深いからだろう。いくら夜の闇が怖いからといっても、北欧のように白夜で一晩中明るければ、夜の暗さに慣れている日本人はなかなか熟睡できないのではないか?気持ちも落ち着かないだろう。

 そのように考えてくると、これから訪れる冬の寒さや暗さや寂しさも、きちんと受け入れてあげなければいけない気がしてくる。

 

 この世のすべての事象は、「他と違う」から「そのもの」と区別され存在価値が生まれるんだろう。例えば、この世の人間がすべて山田太郎さんだったら、山田太郎なんて名前は最初から必要ないわけだ。無人島に漂着して一人で生きなければならない状況に置かれれば、もう名前なんかどうでもよくなる。

 

 人の感情もそうだろう。いつも「穏やか」な感情であれば、「穏やか」という表現さえなくなる。それがいつもの精神状態だからだ。人間の感情がいつも「穏やか」でノッペラしていれば、その感情を表現する意味がなくなる。「穏やか」という表現は、「苦しい」とか「落ち着かない」と言った陰の感情があるからこそ存在する感情表現だ。

 つまり、僕たちが、「穏やか」とか「気持ちいい」、「うれしい」、「楽しい」と感じることができるのは、その反対の「辛い」、「苦しい」、「落ち込む」、「イライラする」、「不安」、「怖い」といった反対の感情があるからだ。

 

 こうして考えてくると、陰の感情は、僕たちが陽の感情を感じる上で重要な役割を果たしてくれていることがわかる。陰の感情体験があるからこそ、陽の感情体験が素晴らしく感じられるのだ。

 

 つらくても歯を食いしばって頑張った後のビールほど美味しいと感じる。それは、まさに陰の体験があってこそだろう。辛さがあるから喜びも大きい。

 

 陰の感情や体験は辛い。人生はむしろその感情体験の方が多いのではないだろうか?

 でも、その辛さが、その先に待っている感情体験を素晴らしく気持ちの良いもの(陽の感情体験)に変えてくれるためにあるのだと考えれば、陰の感情体験も少し愛おしいものにならないだろうか?

 

 森羅万象は「陰」と「陽」で成り立っている。どちらが欠けても意味がない。

 人生もそうだ。人の感情もそうだ。人との関係もそうだ。男と女が存在するのもそうだ。

 全て、「陰」と「陽」で成り立ち、その両方があってこそバランスが取れ安定する。そのどちらが良いとも悪いとも言えない。両方に同じ価値があるのだ。両方とも大事なのだ。両方ともなくてはならないのだ。

 

 だからこそ、気持ちが暗くなったり不幸なことが起こったりしても、できるだけ慌てないで、それを愛おしく感じ味わうくらいな心持ちで居られればと思う。

 

 

 

 

 

少しやせ我慢かな                    2015/10/18

 

 

 

 

  

俺はどこに向かっているのか?

 

今日、車を走らせていて、ふとそう思った。

 

 車のインフォメーションコンソールには「S」、つまり、南に向かっていると表示されている。たしかに、向かって左側には八ヶ岳が、右側には甲斐駒ケ岳が見え南に向かっているようである。最近は、人工衛星が自分の位置を確認して教えてくれる御丁寧なナビゲーションシステムの発達によって、「自分の位置」を「正確」に知ることができる。

 

 でも、ちょっと待てよ......

 

 この「自分の位置」を地球から離れて宇宙から見てみたらどうなるだろうか....?      ふと、そう思ったのだ。

 そうすると、途端に、俺が向かっているのは南でもないし北でもない、東でも西でもない...

 今「俺がいる位置」自体もどことかそことか言えなくなってしまう。

 どこに向かっているでもない。そもそも俺がいる位置も表現できない...

そうなってしまうのだ。

 

 つまり、俺たちがいる「位置」や向かっている「方向」というのは、あくまでも地球という天体の中だけで言えることであって、それは、俺たち地球人が勝手に決めているごくちっぽけなルールの中だけでしか存在し得ない有り様なのだ。

 宇宙という空間に枠を広げて考えると、こんなに無意味な有り様はない。

 

 そう考えてくると、俺たちが確信を持ってこうだ!と言ったり定義付けていることがどれだけ正確なのか?という疑問が出てきた。

 

 先ほど述べた方角や位置もさることながら物の名称だってそうだ。

 例えば、俺たちが「机」と言ってる物だって、犬や猫から見れば、ただの自分の身を敵から隠す物に過ぎないのかもしれない。ましてや、宇宙人が見たらその用途は想像もつかないかもしれない。

 

 この世の全ての事象は、実は、俺たちが勝手に決めている「決め事」の上に成り立っている。しかし、その決め事にどの程度の正確性があるのか?

 もし、その「決め事」に確たる正確性がないとしたらどれほどの意味があるのか?

 

 そもそも、この世の事象に「これこれはこうだ」と確信を持って言えるものがあるのか?

 

 そう考えてきたら、日頃「こうだ」と決めつけていることが馬鹿馬鹿しく思えてくる。自分の存在さえ、どこまでが本当に「在る」のかわからなくなる。気が遠くなるほど広大な宇宙空間の中では、俺の存在さえ「在る」とは言えないくらいちっぽけなものだろう。そこには「無い」のかもしれない。

 

 このように考えてくると、自分がいかに傲慢かと思う。あたかもわかっているかのように「これこれはこうだ」とか「ああだ」とか言っている自分が。実際はどれほど正しいかわからないのに。

 自分の中に沸き起こってくる感情や思考は、「俺」というどうしようもないくらいちっぽけな「世界」の中だけで作られ成立している事象であって、本当はとても「正確」とか「確信」を持って言えるものではないのではないか?

 

 そこに、「自己」の脆さ、愚かさがある。

 

 「自己」が世の中の事象を正確に捉えられないならばそこに一抹の不安と失望が生ずるが、「非自己」も同じような条件であると考えれば少しホッとする。なぜなら、「非自己」=「他者」の捉え方(評価)も正確性に欠く怪しいものと考えられるからだ。

 

 だから、「自己」=自分の判断には常に謙虚でいなければならないが、「非自己」=他者の評価や判断にも必要以上にピリピリしなくていいわけだ。

 

 今日は、こんなことをつらつらと考えていた。そうしたら、少し自分が軽くなったような気がした。

 

 外は雨なのに。

 

 

 

 

鼻が詰まる、アレルギーかな                   2015/11/8

 

 

 

 

 

 

生まれつつあるものと平穏

 

今、僕の頭の中に常にあって離れない言葉がある。

 

『縁起』 『無常』 『相対性理論』

 

 これらの語彙に関して敢えて説明はしない。なぜなら、それをすればとてつもなく長くなるし、僕自身、まだわかっているようでわかっていない混沌とした状態にあるからだ。

 

 ただ、間違いなく言えることは、これらの言葉やそれを背景にした概念が僕の心をしっかりと捉えて離さないということだ。

 

 唐突になるが...              

 

 プラットホームに止まっている電車に乗っているとする。ところが、まだ出発時間でもないのに勝手に列車が動き始めたとしたらどう思う?さぞかしビックリするだろう。

 ・・・

 実は、隣に停車していた列車が逆方向に動き始めただけだったのだ。つまり、自分が乗ってる列車は動いていないが、隣の列車が逆方向に動き始めたためにあたかも自分の列車が動いているように「錯覚」したのだ。こういうようなことはよくあるだろう。

 

 ここで気づくのは、自分(自己)と自分以外の存在(非自己)との関係性の問題だ。

 

 自己は動いていないと認識していても、非自己が動くと自己が動いたように錯覚してしまう。

 つまり、自己のあり方は、非自己のあり方によって大きく影響を受け錯覚さえも生んでしてしまうことがあるということだ。

 

 自己が「かくあるものだ」と思っていても、非自己のあり方によってその確信?が揺らいでしまい変容してしまう。

 では、その自己の「確信」とはどこまで「確たるもの」なのか?

 

 もう一つ大切なのは、自己の有り様は、自己そのものの意思で「かくある」ものになっているわけではなく、非自己との関係性によって「かくあるもの」が現出されているに過ぎないのではないか?ということだ。つまり、今の自分は、自分の意思で今のようにあると思っていてもそれは錯覚で、実際は、自分以外の「非自分=非自己」との関係性によって存在し、「今この瞬間の自分でいさせてもらえている」のではないか?ということだ。

 

 自分という存在は、自分以外のすべての存在との関係性によって初めてこの瞬間に存在し得る。

 言い換えれば、自分以外の存在がなければ自分は存在し得ないし存在する「意味」もない。

 

 そのような考え方から、「縁」と「起」〜すなわち『縁起』や『相対性理論』という概念が僕の心を捉え始めたのだ。

 

 自己と非自己との関係性において初めて両者が現出し意味が発生する。そのどちらが欠けても成り立たない。

 ただ、そのどちらに優位性があるか?と問えば、おそらく後者つまり非自己だろう。なぜなら、自己は非自己が現れて初めて自己に成るからだ。

 

 例えば、机は最初から「机」ではない。人がその上でモノ書きをしたり本を読んだりするから「机」になる。もしその上で食事をしたらそれは「机」ではなく「食卓」となるだろうし、毎日軒下のものを取るための踏み台に使っていたなら「足場」となるだろう。人間様?ではなく猫からしたら、格好の「隠れ場」であり、アリにしてみれば、通行を塞ぐ巨大で厄介な構造物だにしか過ぎない。つまり、僕たちが「机」と呼んでいる物は、「机」以外のものとの関係性によって存在意味や存在自体が変化したり意味がなくなったりする。赤ん坊が生まれるときだってそうだろう。人は最初から親であるわけではない。夫婦だけで暮らしていれば親ではない。世話が必要な赤ん坊が生まれるから「親」になるのだ。つまり、人は自分以外の「赤ん坊」という後から出現した非自己によって「親」になる(ならされる)のだ。

 

 つまり、自分が今「〜だ」と思いあたかも自分の力でそうなっていると思っていてもそれは錯覚で、実際は、自分以外の非自分=非自己が現れることによって初めて「今の自分=自己」になるのだ。

 

 つまり、他力によって自己が形成される、そこに意味が生まれるのである。

 

 それは、自己の存在が非自己の存在なしにはあり得ないことを示している。

 自己は、非自己によって規定され存在させられ意味付けれているのだ。

 

 ただ、ここで忘れてはならないのは、「非自己=非自分=相手」も、「自己=自分」によって規定されており(存在させられており)、意味付けられているということだ。つまり、自分の存在は自分以外の存在にも、自分に対してと同じように大きな影響を与えているということだ。

 

 

 さらに...

 

 自己と非自己との出会いによって自己は現れうる・・・その出会いが『縁』であり、そこから生ずる関係性や現象や意味が『起』ではないか?つまり、これが現在の僕流の『縁起』である。

 

 そして、その『縁起』は常に変化する。変化してとどまることを知らない。むしろ、変化するからこそ存在し得る。それが、僕流の『無常』である。

 『今の僕』は絶えず変化している。この瞬間も。ブログを書き始めた時の僕と今の僕はすでに違う「自己」である。次の30秒後の自分も違う「自己」だろう。もちろん、30年前の「自己」とも違う。10年後の自分も違うだろう。一瞬たりとも同じ自分はいない。だから、「この瞬間の今の自己=自分」が大事だし意味がある。

 過去の自分も将来の自分には意味がない。どうでもいい。大事なのは「今の自分=自己」。なぜなら、すべてが移ろいゆき、一瞬たりとも同じではないからだ。

 

 だから、「今この瞬間の自分=自己」に意味があり、その自分がどうあるか?が大事なのだ。そこに意味がある。

 

 ここまでくれば、なぜ「相対性理論」に関心があるかはわかっていただけるだろう。

 

 えっ?わからないって?

 そりゃあそうだよね。僕もうまく説明できないんだから(笑)

 また、少しずつ書いていきますからご勘弁を....

 

 

 

 僕は、幼少期から過敏性腸症候群で、よくお腹をこわした。でも、最近、このようなことを毎日考え始めたら、不思議とお腹のあたりが温かくなるような感じがして気持ちも楽になることが増えてきた。

 

 まだ、自分の考えていることはまとまらず混沌としているが、もう少し思索を深めてまとめていきたいと思う。

 それは、必ず自分自身の人間性を高めることになると確信しているし、それはそのまま、ライフワークである精神科医としてのあり方、強いては臨床に寄与すると思うからだ。

 

 また、明日から頑張ろう。

 

 

 

 

今もお腹が温かい                        2015/11/12

 

 

 

 

 

 


眠れないから起きよう

 

今、20日の午前3時半。

なかなか寝付けないから起きてしまった。

 

 いつもなら、一日のうちで布団に入る時が一番安らぐのだが、今日はなぜか違う。気持ちがザワザワするし、お腹の調子も良くない。

 こういう時は無理に寝ようとしない方がいい。だから起きることにした。

 

どうしてかな...

        .......

 

考えても何も出てこない。まあ、こういうこともあるだろう。

 

 イヤホンを耳にかける。

 ラフマニノフのピアノコンチェルト第2番がいつも以上に心に沁みる。ラフマニノフのロマンチシズムに溢れた世界は好きだ。

 

 

 

いきなり脈絡がない話だが・・・

 

最近「保証」ということについて考えている。「生きる保証」だ。

 

 僕たちは不安の中に生きている。不安がなくなることはない。生まれた瞬間から死ぬまで、この厄介な不安というものと付き合っていかなければならない。

 生きるとは不安を抱えていくことであり、だからこそ難しい。

あのお釈迦様も、「生きるとは苦である」と言った。

 

 

 でも、不安や恐怖を感じた時、「もう少し頑張って生きてみよう」と思えるのはどうしてか?

 それは、幼少期に、親(特に母親)から「生きる保証」を充分に与えられるからだ。

 

 『お母さんはお前のことが大好きだよ』『お前はかけがえのない子だよ』『だから大丈夫だよ』というメッセージを充分に与えられた子は、大人になってからも不安や恐怖とうまく付き合っていくことができる。

 そして、その「生きる保証」のメッセージの伝達手段として欠かせないのはアタッチメント(愛着)である。つまりスキンシップだ。

 お母さんが幼少期の子供にしてあげなければならないのはこのアタッチメントだ。特に5歳までのアタッチメントは重要で、その後の人生に大きな影響を与えるといわれている。

 

 人は、母親と一心同体である胎児の段階から、出産という過程において母親から別れ一人の個体となる。その時から一人で生きていかなければならなくなる。そこから不安や恐怖が発生する。

 「生きる不安」「存在する不安」・・・・つまり、「どうやって生きていったらいいんだろう?」「自分は生きていていいのか?」という不安である。

 

 母親が子供に与える保証とは、言い換えれば、「大丈夫。お前ならちゃんと生きていけるよ」「お前はこの世に生きていていいんだよ」という保証である。

 だから、幼少期の母親の役割はとても重要だ。この時期に充分な保証を母親から与えられなかった子は、大人になってからも不安に敏感で、先々のことが不安になったり、自分が生きていていいのかわからなくなったりする。ストレス耐性が脆弱だったり自己肯定感が低いからだ。不安障害や強迫性障害などは「生きる不安」に直結しているし、情緒不安定性パーソナリティ障害や摂食障害などは「存在する不安」にその本質がある。いずれも、とても苦しいものだ。

 

 生きるというのは本当に大変だなあと思う。

 

 今、患者さんのことを思い浮かべる。

 僕も生きるのは大変だが、患者さんたちも毎日ものすごく辛い思いをしている。

 

 こうやって離れてはいるが、生きる辛さは同じ。一緒にいられないが、気持ちだけはいつも患者さんと共にある。いつも患者さんのことを思う。愛おしくなる。少しでも、生きる辛さ〜「生きる不安」や「生きている=存在する不安」を共有したい。そして、少しでも軽くして差し上げたい。素直にそう思う。精神科医としてできることは限られているが、患者さんを思う気持ちだけは大事にしてきたし、これからもそれは変わらないだろう。それが、僕が精神科医として生きてきた基本的な姿勢だ。

 

 

今、午前4時40分。あと数時間でクリニックだ。

まだ布団に入る気持ちにならない。

今日はこのまま起きていることになりそうだ。

いつの間にか、曲はラフマニノフのピアノコンチェルト第3番に移っている。

 

 

 

 

 

孤独                          2015/11/20

 

 

 

 

 

 

また、大晦日

 

あと、一時間半ほどで2015年が終わる。

 

紅白歌合戦が遠くの方で流れているようだが、今僕はイヤホンで好きなEARTH WIND & FIREのライブを聴きながらこの文章を書いている。

 

こんなに大晦日らしくない大晦日も経験がない。普段の日常の22時29分45秒である。

 

・・・道元の『正法眼蔵』を読んでいる。   

  

この本は難解だが、この本に巡り合ってから自分の中で何かが変化しつつあるのを感じる。

全ての事象は、自分の知覚が作り出した極めて曖昧で勝手な架空の世界。

 

過去も、未来も、そして、今この瞬間でさえも「あって無い、無くてある」『空』の世界。

 

僕の存在も、僕の目の前にある様々なものも、僕が感じている感覚も思考も、すべて「あって無い、無くてある」。

 

今僕はソファーの上に座ってこれを書いている。体はソファーに深々と体を沈めて「止まっている」と感じている。しかし、地球の外から見れば、僕はものすごい速度で回転しているのだ。

 

見る条件が違えば、そこに全く別の世界が現出する。

僕は「止まっていて動いており、動いていて止まっている」のだ。

 

そうすると、僕が考えている思考や感覚がどれほど確かなものなのかわからなくなる。自分が「こうだ」と思っていることがどれほど正しいのか?それは他人にも言える。他人が「こうだ」と言っていることがどれだけ正しいのか?

 

世の中の全ての事象に「これはこうだ」とか「あれはこうだ」と決められることはない。全ては「あって無い、無くてある」からだ。

 

僕の思考も感覚も存在も、「あって無い、無くてある」。他人もそうだ。

 

そういうことがわかってくると、自分の中の「こだわり」が少しずつ消えていく。

なぜなら、「こだわり」そのものが「あって無い、無くてある」、つまり『空』だからだ。

自分の感覚や思考が『空』ならば、こだわること自体が無意味になる。

 

デカルトは「我思う、ゆえに我あり」と言った。

しかし、そもそも、その「我」自体が不確かで曖昧なものであり、「我」を感じている感覚や思考もどこまで正しいかわからない。従って、考えている自分がいるから自分の存在は間違いがないというデカルトの考え方はどこまで正しいか怪しくなってくる。

 

デカルトの思想を道元流に言い変えれば、「我思うが、しかし、我はあるようで無く、無くてあるようだ」である。

 「正法眼蔵」の思想は、デカルトを含め様々な西欧哲学を超えている。

 

 

人間の苦しみは、「こだわり」から生まれる。ほとんどすべての苦しみや辛さは「こだわり」=「執着」から生まれると言ってもいいだろう。

 

でも、『正法眼蔵』に示されている世界を理解していくと、この「こだわり」=「執着」から少しずつ距離が取れていくような感じがする。

少しだが、気持ちが楽になるのだ。

 

『ありのまま』とは、「こだわり」や「執着」を捨てること

 今の自分やすべての事象を受け入れて「よし」とすること

 

苦しいのも、辛いのも、すべて「あって無い、無くてある」

楽しいのも、嬉しいのも、すべて「あって無い、無くてある」

 

全て、全て、全て、全て、湧いては消え消えては湧くあぶくのようなもの。

 

 

だから、今の僕は

 

苦しくて、楽しい

嬉しくて、哀しい

辛くて、気持ちがいい

優しくて、冷たい

 

それで良い

 

 

幸せというのはあるのだろうか?

不幸というのはあるのだろうか?

 

きっと、幸せも無いし不幸も無いのだろう。

なぜなら、幸せと感じたとしてもいつか不幸は起こるし、不幸と感じたとしても幸せが訪れるからだ。

しかも、そもそも、自分が幸せと感じたり不幸と感じたりしていることが、果たしてどれだけ正しいのか?

 

日本人である僕たちがどれだけ不幸だと言っても、内戦状態にあるイラクやシリアの人たちの比ではないだろう。

立場や環境が変われば、一瞬のうちに不幸が幸せになるのだ。その逆も然り。

僕たちの価値観や感覚、思考なんて、こんなに曖昧で不確かなものなのだ。

 

もともと、本当の幸せなんてないし、本当の不幸もない。

ただ、流れ行く「事象」があるだけだ。そこには、もともと「意味」はない。「意味」は、僕たちが自分の曖昧な基準で勝手につけるものだ。

人生もそう。

 

『諸行無常』  

 

万物の全ての事象に意味はないし、常に同じところに留まらずにただ過ぎ行くだけである。自然のあり方もそう。時代の流れもそう。人の人生もそう。

少しくらいお金を貯めても、少しくらい高いバッグを買っても、少しくらい高い車を持っても、少しくらい持ち家が手に入っても、少しくらいダイエットして体重が減っても、少しくらいイケメンの彼氏ができても、少しくらい良い大学に入れても、少しくらい給料が良い企業に就職できたとしても・・いつかは、それはすべて消えて無くなる。

 

いつかは、この体とともに消えてしまう。

 

全ての事象は常に同じ状態にはない。絶えず変化している。

 

僕たちは、常に変化して動いているから「今の自分」がある。

変化していなければ、昨日の自分はないし、未来の自分もないから「今の自分」もない。

 

つまり、全ての事象は、動かないで固定しているから「今の状態」があるのでは無く、絶えず変化し一瞬たりとも同じ状態がないからこそ、「今の状態」があるのだ。

 

ならば、安定した何か(例えば、安定した生活とか、安定した人間関係とか、安定した収入とか、安定した幸せとか...)を追い求めることにどれほどの意味があるのか?

それは、もともと不可能なことである。

そんな状態は最初からないのだから。

 

 

全ての出来事は常に変化し、流れ行き、消え、別のものに変化し...

それを繰り返す。

 

人の肉体もそう。

人の人生もそう。

 

『諸行無常」

 

 

だから、今この瞬間が大事なのだ。

まさに、今このこの瞬間も移ろっているからだ。

今この瞬間と同じ瞬間は二度とないからだ。

過去にも未来にも。

 

 

 

 

僕の体と魂は宇宙につながっている

 

星屑の一部として

 

そして、その宇宙でさえも、「あって無い、無くてある」のだから

 

僕も「あって無い、無くてある」

 

今、僕は『空』である

 

とても心地よい

 

 

 

 

 

 

 

 

紅白......? どうだっていい                          2015/12/31